当時の南京の人口は20万人
投稿者: deliciousicecoffee 投稿日時: 2004/09/26 18:13 投稿番号: [6170 / 29399]
>南京特別市戦区とされる地域は東京、神奈川、埼玉をあわせた広範な地域なのだよ、、どうして一人で人口動勢を調査できるのか考えてみろ、、おまえにできるか?わずか3ヶ月足らずで、、
南京城の面積は世田谷区よりも狭く、鎌倉市とほぼ同じ。
国際安全委会は安全区にいる避難民の食糧調達や配給等にも関与したため、人口の把握が必要だった。
そして、戦闘が始まった12月12日の夜には、南京に残った市民のすべてが国際安全区にいたため、人口の把握は容易でかなり正確であった。
1937/11/23日「50万」
「調査によれば本市(南京城区)の現在の人口は約50余万である。将来は、およそ20万と予想される難民のための食料送付が必要である」
南京市政府書簡(南京事件P220 笠原十九司)
11/27「30〜40万」
在留外国人に対して「避難勧告」が出された。
「市民の脱出は続いているが、市長の話では30万から40万の市民がまだ南京に残っているとのこと」
米大使館報告 (アメリカ資料編P90)
12月1日、南京市長が全市民に安全地区に移るように命令。
12/4
下関地区では脱走兵が略奪をやったことが報告されている。 長江岸へ通じる把江門は混雑している。恐らく今日行われた南京城内に対する爆撃によって流出者はさらに増えることになろう。
米大使館報告(アメリカ資料編P93)
12/6「約20万」
なぜ。金持ちを、約80万という恵まれた市民を逃がしたんだ?
(ラーベの日記P96)
12/7
何千という人々が南門から安全区に入ってきた。彼らの話によれば、5時までに立ち退くよう警察から命令されており、それに従わなければ家は焼き払われ、スパイとみなされる、というのだ。
(南京事件の日々P39)
12/8
南京防衛軍の司令官唐生智は、市が戦闘地区に入ったと宣言し「すべての非戦闘員は国際管理下の安全地帯に終結しなければならない」と、布告した。市内他地区での移動は、黄色の腕章に特別の印で示される特別許可証所有者を除いて禁じられる。
1937/12/8NYタイムズ(ダーディン)(アメリカ資料編P390)
12/10「20万」
なにしろ、この街の運命と20万人の命がかかっているのだ。安全区の道路は、避難する人たちでごったがえしている。〜中略〜残念ながら軍人がまだ大勢、安全区に留まっている。
(ラーベの日記P107)
12/12
今夜の記者会見で聞いたところによれば、防衛司令官の唐生智には、旗下の部隊に対する統率力が不足ために、城内のほとんどの場所で略奪が行われているそうだ。
(南京事件の日々P47)
12/13
ラーベを委員長とする安全委員会は12月17日の日本大使館宛の文書で、「13日に日本軍が入城した時には一般市民の殆ど全体を安全地区に集めていた」とある。
こうして安全区を別とすれば、南京市は人気(ひとけ)が無くなり、我々委員会のメンバー、わずかのアメリカ人新聞記者、取り残されたヨーロッパ人が2〜3人いるだけになりました。
『南京の真実』P344 1938年6月8日付け「ヒットラー宛の上申書」
Ω Ω Ω Ω
言いかえれば、13日に貴軍が入城したときに我々は安全区内に一般市民のほとんど全体を集めていましたが、同区内には流れ弾による極めてわずかの破壊しかなく、中国兵が全面的退却を行った際にもなんら略奪は見られませんでした。〜中略〜もし市内の日本兵の間でただちに秩序が回復されないならば、20万の中国市民の多数に餓死者が出ることは避けられないでしょう。
(安全委員会公文書T-6)
(参考)
http://www5b.biglobe.ne.jp/~nankin/page012.html
南京城の面積は世田谷区よりも狭く、鎌倉市とほぼ同じ。
国際安全委会は安全区にいる避難民の食糧調達や配給等にも関与したため、人口の把握が必要だった。
そして、戦闘が始まった12月12日の夜には、南京に残った市民のすべてが国際安全区にいたため、人口の把握は容易でかなり正確であった。
1937/11/23日「50万」
「調査によれば本市(南京城区)の現在の人口は約50余万である。将来は、およそ20万と予想される難民のための食料送付が必要である」
南京市政府書簡(南京事件P220 笠原十九司)
11/27「30〜40万」
在留外国人に対して「避難勧告」が出された。
「市民の脱出は続いているが、市長の話では30万から40万の市民がまだ南京に残っているとのこと」
米大使館報告 (アメリカ資料編P90)
12月1日、南京市長が全市民に安全地区に移るように命令。
12/4
下関地区では脱走兵が略奪をやったことが報告されている。 長江岸へ通じる把江門は混雑している。恐らく今日行われた南京城内に対する爆撃によって流出者はさらに増えることになろう。
米大使館報告(アメリカ資料編P93)
12/6「約20万」
なぜ。金持ちを、約80万という恵まれた市民を逃がしたんだ?
(ラーベの日記P96)
12/7
何千という人々が南門から安全区に入ってきた。彼らの話によれば、5時までに立ち退くよう警察から命令されており、それに従わなければ家は焼き払われ、スパイとみなされる、というのだ。
(南京事件の日々P39)
12/8
南京防衛軍の司令官唐生智は、市が戦闘地区に入ったと宣言し「すべての非戦闘員は国際管理下の安全地帯に終結しなければならない」と、布告した。市内他地区での移動は、黄色の腕章に特別の印で示される特別許可証所有者を除いて禁じられる。
1937/12/8NYタイムズ(ダーディン)(アメリカ資料編P390)
12/10「20万」
なにしろ、この街の運命と20万人の命がかかっているのだ。安全区の道路は、避難する人たちでごったがえしている。〜中略〜残念ながら軍人がまだ大勢、安全区に留まっている。
(ラーベの日記P107)
12/12
今夜の記者会見で聞いたところによれば、防衛司令官の唐生智には、旗下の部隊に対する統率力が不足ために、城内のほとんどの場所で略奪が行われているそうだ。
(南京事件の日々P47)
12/13
ラーベを委員長とする安全委員会は12月17日の日本大使館宛の文書で、「13日に日本軍が入城した時には一般市民の殆ど全体を安全地区に集めていた」とある。
こうして安全区を別とすれば、南京市は人気(ひとけ)が無くなり、我々委員会のメンバー、わずかのアメリカ人新聞記者、取り残されたヨーロッパ人が2〜3人いるだけになりました。
『南京の真実』P344 1938年6月8日付け「ヒットラー宛の上申書」
Ω Ω Ω Ω
言いかえれば、13日に貴軍が入城したときに我々は安全区内に一般市民のほとんど全体を集めていましたが、同区内には流れ弾による極めてわずかの破壊しかなく、中国兵が全面的退却を行った際にもなんら略奪は見られませんでした。〜中略〜もし市内の日本兵の間でただちに秩序が回復されないならば、20万の中国市民の多数に餓死者が出ることは避けられないでしょう。
(安全委員会公文書T-6)
(参考)
http://www5b.biglobe.ne.jp/~nankin/page012.html
これは メッセージ 6146 (oityantyan さん)への返信です.