一部反論申しあげる?検証を要す!
投稿者: oityantyan 投稿日時: 2004/09/25 06:53 投稿番号: [6141 / 29399]
>1937年12月18日にドイツ人のジョン・ラーべが南京から日本大使館にあてた手紙に食料支援要請のための手紙を送っています。そこにはちゃんと南京の市民が20万人と明記されている。
ところで、ラーベは人口動勢をどのような方法で調査をしたのでしょうか?
ここが最大の問題なのですよ。
貴方は、ラーべがこのように記しているから20万人しか存在しなかったと言われるのでしょうが、、当方は明らかにこれは、ラーベの直感的な概数だと思うわけですよ。
解説をしますとね。
1937年8月15日に長崎の大村飛行場から海軍の陸式爆撃機が南京を無差別攻撃します。勿論、宣戦布告も、警告も無く、昼食時にいきなり、爆弾を落とします。
それから連日連夜、南京およびその周辺都市を爆撃し9月の初旬に上海近郊に飛行場が完成するや、そこからは戦闘機の護衛のもと、南京爆撃に拍車がかかりました。
一方、南京市民は連日連夜の爆撃に命をさらされ、富裕層から外国人、逃げて行くところのある者から順に避難を始め、100万人都市であった南京から脱出していったのです。このとき南京特別市とされる近郊の県城、村を併せると約150万の人口を抱えていたとされています。
ラーベの日本大使館宛の手紙(1937年12月18日)に20万人と書かれている?
わずか8月15日の爆撃から4ヶ月間の人口移動動勢をどのようにラーベは調査できたのでしょうかね。しかも現在進行中の避難、脱出中の人口を、、、
当時の南京を含む、南京近郊、農村地帯には新聞や、ラジオ、テレビはもちろんのこと電話、無線など、なんら情報を伝えるものはありませんでしたよ。
日本の国政調査においても、現代のように通信が発達した都市ですら、人口動勢を把握するにはかなりの時間が必要ですが、戦争時しかも、毎晩空襲されながらの人口調査はいかがでしたのでしょうか?
単純な疑問ですよ?
自信がおありのようですので、この点を教えてください。
どのような方法でラーベは人口動勢を把握できたのでしょうか?
急ぎますので、A級戦犯、靖国は夕刻に、、
これは メッセージ 6139 (heaven10drive さん)への返信です.
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