なんだ
投稿者: inuwokuuna_bakatyon 投稿日時: 2004/06/25 12:47 投稿番号: [5391 / 29399]
今回もまた
君の妄想を綴った作文か
(大笑い
よく知らないが
人生いろいろ、会社もいろいろ。だよ。(大笑い
ハワード首相はそう思ってるの鴨しれないね。
でも【問題は市民レベルの和解なのである】なんだろ?
だったらオージーの世論とハワード首相の個人的見解が一致するという論拠を示さなきゃ(藁
ハワード首相の個人的見解だけを持ち出して何の意味があるのよ?
またみんなから笑われるぞぉ(大笑い
君はね、いつもそうやって客観的論拠を示さず、
自分の妄想を根拠として作文するから、みんなから笑われるんだよ。
傍から見ててあんまり哀れだからぁ
>これはバカがよく陥る論理である。今も昔も多分強盗・強かん・放火・殺人は悪かったのである。だからアジアの民衆は侵略皇軍に抵抗した。
これについて君の代わりに君の【アジアの民衆は侵略皇軍に抵抗した】
という論拠を探してやったぞ(大笑い
ほれ。
【オーストラリア軍の勇戦を讃えた日本軍】
昭和十六年(一九四一)十二月八日、大東亜戦争開戦とともに、日本軍はイギリスの植民地であり、アジア支配の一大拠点であったシンガポールをめざしてマレー半島を南下しました。それは破竹の進撃であつて、翌年の一月末にはシンガポールの対岸ジョホールバルにまで達しました。英国軍に所属するオーストラリア軍は、ジョホールバルの東にあるシェマールアンで、必死の抵抗を試みました。
シンガボールの中学二年用教科書(Social and Economic History of Modern Singapore)は、その時の模様を次のように書いています。
〈オーストラリア軍は、武装を完全に整えて日本軍に対して戦闘体制に入った。ところがその時、半裸の村民たちは(日本軍に味方して)、オーストラリア軍に敵対してくる事が判った。
そこでオーストラリア軍は決死の覚悟を固め、激しい戦闘の果てに二百人がすべて戦死した。この戦によって日本人の戦死傷者は、一千人に達した。
日本兵やその指揮官たちは、オーストラリア兵の勇気に感激した。彼らは敬意を表すために、二百人を葬った墓地の上に巨大な木製の十字架を建てた。十字架には『私たちの勇敢な敵、オーストラリア兵士のために』と書かれた。〉
私はこの事実があったかどうかマレー作戦の中佐参謀であった杉田一次氏に質ねました。杉田氏は、「当時の近衛師団が十字架を建てたことは、聞いている」とのことでした。続いて当時上等兵として戦った中島慎三郎氏(ASEANセンター代表)に聞きました。氏はこう返答してきました。
「そんなことはいくらでもあった。第一山下奉文司令官が偉かった。山下将軍は仏の心を持っていたから、 英兵の死体を見ると、必ず挙手の礼をしていた。司令官がそうだから、我々も勇敢に戦った敵将兵の跡には、十字架や墓標を建てていったのだ。特に我々は中国戦 線で戦ってから、マレーに進撃した。当時の支那兵は 戦意が乏しく、逃げてばかりいた。ところがマレーの英兵は踏み止まってよく戦った。だから尊敬の心が起ったのだ。勇敢な敵兵に敬意を表するのは、当時の習いだった。それは海軍も同じだった。日本の海軍航空隊は十二月十日に英国戦艦プリンス・オブ・ウェールズとレパルスを轟沈させた。すると指揮官の壱岐春記大尉は、撃沈させた後、愛機を現地まで飛ばして、勇敢に戦った英国将兵のために花束を投下したではない か。
日本が英国植民地勢力の牙城シンガポールを陥落させると、アジア諸民族は熱狂した。寺内寿一南方軍総司令官はこの意義をアピールするために、山下将軍に対し、盛大な入場式をやるように勧告した。しかし山下将軍は、敗戦した敵軍のことを思ってとりやめ、敵味方の戦死者を弔う合同慰霊祭を斎行した。」
*
シンガポールの教科書にまつわる話はまだあります。私が昭和六十三年五月にオーストラリアを訪ねた時、シンガポールの教科書を持参しました。現地の戦友会が歓待してくれたので、この秘話を紹介しました。しかし、彼らはオーストラリア軍の勇戦も日本の美談も知りませんでした。それだけにこの話を聞いて快哉し、「日豪友好の絆がもう一つ増えた」とたいそう喜んでくれました。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/nagoshi/nikkan_696.htm
(核爆笑
君の妄想を綴った作文か
(大笑い
よく知らないが
人生いろいろ、会社もいろいろ。だよ。(大笑い
ハワード首相はそう思ってるの鴨しれないね。
でも【問題は市民レベルの和解なのである】なんだろ?
だったらオージーの世論とハワード首相の個人的見解が一致するという論拠を示さなきゃ(藁
ハワード首相の個人的見解だけを持ち出して何の意味があるのよ?
またみんなから笑われるぞぉ(大笑い
君はね、いつもそうやって客観的論拠を示さず、
自分の妄想を根拠として作文するから、みんなから笑われるんだよ。
傍から見ててあんまり哀れだからぁ
>これはバカがよく陥る論理である。今も昔も多分強盗・強かん・放火・殺人は悪かったのである。だからアジアの民衆は侵略皇軍に抵抗した。
これについて君の代わりに君の【アジアの民衆は侵略皇軍に抵抗した】
という論拠を探してやったぞ(大笑い
ほれ。
【オーストラリア軍の勇戦を讃えた日本軍】
昭和十六年(一九四一)十二月八日、大東亜戦争開戦とともに、日本軍はイギリスの植民地であり、アジア支配の一大拠点であったシンガポールをめざしてマレー半島を南下しました。それは破竹の進撃であつて、翌年の一月末にはシンガポールの対岸ジョホールバルにまで達しました。英国軍に所属するオーストラリア軍は、ジョホールバルの東にあるシェマールアンで、必死の抵抗を試みました。
シンガボールの中学二年用教科書(Social and Economic History of Modern Singapore)は、その時の模様を次のように書いています。
〈オーストラリア軍は、武装を完全に整えて日本軍に対して戦闘体制に入った。ところがその時、半裸の村民たちは(日本軍に味方して)、オーストラリア軍に敵対してくる事が判った。
そこでオーストラリア軍は決死の覚悟を固め、激しい戦闘の果てに二百人がすべて戦死した。この戦によって日本人の戦死傷者は、一千人に達した。
日本兵やその指揮官たちは、オーストラリア兵の勇気に感激した。彼らは敬意を表すために、二百人を葬った墓地の上に巨大な木製の十字架を建てた。十字架には『私たちの勇敢な敵、オーストラリア兵士のために』と書かれた。〉
私はこの事実があったかどうかマレー作戦の中佐参謀であった杉田一次氏に質ねました。杉田氏は、「当時の近衛師団が十字架を建てたことは、聞いている」とのことでした。続いて当時上等兵として戦った中島慎三郎氏(ASEANセンター代表)に聞きました。氏はこう返答してきました。
「そんなことはいくらでもあった。第一山下奉文司令官が偉かった。山下将軍は仏の心を持っていたから、 英兵の死体を見ると、必ず挙手の礼をしていた。司令官がそうだから、我々も勇敢に戦った敵将兵の跡には、十字架や墓標を建てていったのだ。特に我々は中国戦 線で戦ってから、マレーに進撃した。当時の支那兵は 戦意が乏しく、逃げてばかりいた。ところがマレーの英兵は踏み止まってよく戦った。だから尊敬の心が起ったのだ。勇敢な敵兵に敬意を表するのは、当時の習いだった。それは海軍も同じだった。日本の海軍航空隊は十二月十日に英国戦艦プリンス・オブ・ウェールズとレパルスを轟沈させた。すると指揮官の壱岐春記大尉は、撃沈させた後、愛機を現地まで飛ばして、勇敢に戦った英国将兵のために花束を投下したではない か。
日本が英国植民地勢力の牙城シンガポールを陥落させると、アジア諸民族は熱狂した。寺内寿一南方軍総司令官はこの意義をアピールするために、山下将軍に対し、盛大な入場式をやるように勧告した。しかし山下将軍は、敗戦した敵軍のことを思ってとりやめ、敵味方の戦死者を弔う合同慰霊祭を斎行した。」
*
シンガポールの教科書にまつわる話はまだあります。私が昭和六十三年五月にオーストラリアを訪ねた時、シンガポールの教科書を持参しました。現地の戦友会が歓待してくれたので、この秘話を紹介しました。しかし、彼らはオーストラリア軍の勇戦も日本の美談も知りませんでした。それだけにこの話を聞いて快哉し、「日豪友好の絆がもう一つ増えた」とたいそう喜んでくれました。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/nagoshi/nikkan_696.htm
(核爆笑
これは メッセージ 5388 (syoumenkyousi さん)への返信です.