>>横から失礼・・
投稿者: dorawasabi5001 投稿日時: 2004/05/08 23:19 投稿番号: [5133 / 29399]
>プロの軍人で専従の大隊副官(優秀で常識のある人物が補職されていた)や、砲兵の専門家(ほぼ、希望してなった専門職)が『白兵戦』を望むでしょうか?
ですから、メッセージ5124の提示したように、野田少尉は【白兵戦で斬ったのではなく、捕虜を殺害】と講演しています。↓
★占領した敵の塹壕にむかって『ニーライライ』とよびかけるとシナ兵はバカだから、ぞろぞろと出てこちらへやってくる。【それを並ばせておいて片っぱしから斬る…… 】
【百人斬りと評判になったけれども、本当はこうして斬ったものが殆んどだ……】
>次に「紫金山で両少尉と会った」とされるのが12日だそうですが。
>【12日は向井少尉は負傷・後送。原隊復帰は南京戦終結後の12月15日。】
>12日に向井少尉と「会う」事は不可能でしょう。(戦闘中、野戦病院にて治療の為)
>野田少尉も12日に紫山に行く事は不可能でしたでしょう。
直属上官の富山大隊長(歩兵砲小隊は大隊直属。大隊副官は当然)も、その点を証言されています。
*紫金山方面は、同じ第16師団隷下の第33連隊が配備されていました。
これらは、【戦後、彼らが戦犯に問われたので、】富山大隊長が証言しているものですね。
しかし、下記のような証言・証拠があるようですね。
★第三は、【第4報の共同執筆者である鈴木二郎氏の証言[5]です。】
| そして記事にあるように、【紫金山麓で二人の少尉に会ったんですよ。】
|浅 海さんと一緒になり、結局、その場には向井少尉、野田少尉、浅海さん、
| ぼくの四人がいたことになりますな。
あの紫金山はかなりの激戦でした
| よ。その敵の抵抗もだんだん弱まって、頂上へと追い詰められていった
| んですよ。最後に一種の毒ガスである“赤筒”でいぶり出された敵を掃
| 討していた時ですよ、
【二人の少尉に会ったのは】…。そこで、あの記事の
| 次第を話してくれたんです。
・・・
第四は、山本七平氏が自身の連載中で紹介しているいくつかの手紙です。
・・・
それに
よると、例えば向井少尉と同じ部隊にいたという衛生兵T氏は「入城式
の前日(16日)城外道路掃除命令をうけて、中山門(高橋注:南京城の
東門)から外へ5キロほど清掃した」といい、また11日には【向井隊の本
部が紫金山麓の霊谷寺】におかれ、12日から16日にかけては南京城外で野
営したとも述べているそうです[6]。
中山門から5キロの範囲といえば、
ちょうど紫金山の南麓を走る公道にあたります。となると、富山氏の主
張する(a)(b)は否定されてしまいます。
・・・によれば、
負傷した向井少尉は『俺は歩けるから』といって
馬を降り、疲労困憊した部下を代わりに乗せていたそうです。
富山氏の
言うように向井少尉が「左膝頭部盲貫を受け」ていたとしたら、歩くこ
となど到底不可能なはずです。それどころか馬に乗ることすら困難で、
担架で搬送するほかなかったでしょう。
・・よって富山氏の主
張(c)も崩れてしまいます。向井少尉が何らかの傷を負ったこと自体は
事実のようですが、それは離隊治療を要するほどのものではなかったと
思われます。
第五の反証は新聞記事自身の中にあります。
第2報には、向井少尉が
「丹陽中正門の一番乗りを決行」したという記述があるのですが、・・・
しかし、当時の軍隊におい
て「一番乗り」というのは極めて重要視された名誉であって、こんなこ
とで嘘を書いたら本当に一番乗りを果した側が黙っていません・・・
この「一番乗り」報道が何ら問題にならなかったことは、そ
れが実際そのとおりの事実であったことを示していると思われます
http://homepage3.nifty.com/m_and_y/genron/nangjin/hyakunin/fj960923.htm
>>【それぞれに当番兵がついている。その当番兵をとりかえっこして、当番兵が数えているのだ、という話だった。】
>当番兵と戦闘配置は無関係です。
なので「当番兵をとりかえっこして、当番兵が数えているのだ」と言う事はできません。
直属上官に抗議で捻じ込まれますよ。
それに、尉官程度なら当番兵は将校4〜5名に付1人程、です。
「とりかえっこ」は無理ですねぇ。いませんから。そんなに当番兵は。
しかし、当時の
ですから、メッセージ5124の提示したように、野田少尉は【白兵戦で斬ったのではなく、捕虜を殺害】と講演しています。↓
★占領した敵の塹壕にむかって『ニーライライ』とよびかけるとシナ兵はバカだから、ぞろぞろと出てこちらへやってくる。【それを並ばせておいて片っぱしから斬る…… 】
【百人斬りと評判になったけれども、本当はこうして斬ったものが殆んどだ……】
>次に「紫金山で両少尉と会った」とされるのが12日だそうですが。
>【12日は向井少尉は負傷・後送。原隊復帰は南京戦終結後の12月15日。】
>12日に向井少尉と「会う」事は不可能でしょう。(戦闘中、野戦病院にて治療の為)
>野田少尉も12日に紫山に行く事は不可能でしたでしょう。
直属上官の富山大隊長(歩兵砲小隊は大隊直属。大隊副官は当然)も、その点を証言されています。
*紫金山方面は、同じ第16師団隷下の第33連隊が配備されていました。
これらは、【戦後、彼らが戦犯に問われたので、】富山大隊長が証言しているものですね。
しかし、下記のような証言・証拠があるようですね。
★第三は、【第4報の共同執筆者である鈴木二郎氏の証言[5]です。】
| そして記事にあるように、【紫金山麓で二人の少尉に会ったんですよ。】
|浅 海さんと一緒になり、結局、その場には向井少尉、野田少尉、浅海さん、
| ぼくの四人がいたことになりますな。
あの紫金山はかなりの激戦でした
| よ。その敵の抵抗もだんだん弱まって、頂上へと追い詰められていった
| んですよ。最後に一種の毒ガスである“赤筒”でいぶり出された敵を掃
| 討していた時ですよ、
【二人の少尉に会ったのは】…。そこで、あの記事の
| 次第を話してくれたんです。
・・・
第四は、山本七平氏が自身の連載中で紹介しているいくつかの手紙です。
・・・
それに
よると、例えば向井少尉と同じ部隊にいたという衛生兵T氏は「入城式
の前日(16日)城外道路掃除命令をうけて、中山門(高橋注:南京城の
東門)から外へ5キロほど清掃した」といい、また11日には【向井隊の本
部が紫金山麓の霊谷寺】におかれ、12日から16日にかけては南京城外で野
営したとも述べているそうです[6]。
中山門から5キロの範囲といえば、
ちょうど紫金山の南麓を走る公道にあたります。となると、富山氏の主
張する(a)(b)は否定されてしまいます。
・・・によれば、
負傷した向井少尉は『俺は歩けるから』といって
馬を降り、疲労困憊した部下を代わりに乗せていたそうです。
富山氏の
言うように向井少尉が「左膝頭部盲貫を受け」ていたとしたら、歩くこ
となど到底不可能なはずです。それどころか馬に乗ることすら困難で、
担架で搬送するほかなかったでしょう。
・・よって富山氏の主
張(c)も崩れてしまいます。向井少尉が何らかの傷を負ったこと自体は
事実のようですが、それは離隊治療を要するほどのものではなかったと
思われます。
第五の反証は新聞記事自身の中にあります。
第2報には、向井少尉が
「丹陽中正門の一番乗りを決行」したという記述があるのですが、・・・
しかし、当時の軍隊におい
て「一番乗り」というのは極めて重要視された名誉であって、こんなこ
とで嘘を書いたら本当に一番乗りを果した側が黙っていません・・・
この「一番乗り」報道が何ら問題にならなかったことは、そ
れが実際そのとおりの事実であったことを示していると思われます
http://homepage3.nifty.com/m_and_y/genron/nangjin/hyakunin/fj960923.htm
>>【それぞれに当番兵がついている。その当番兵をとりかえっこして、当番兵が数えているのだ、という話だった。】
>当番兵と戦闘配置は無関係です。
なので「当番兵をとりかえっこして、当番兵が数えているのだ」と言う事はできません。
直属上官に抗議で捻じ込まれますよ。
それに、尉官程度なら当番兵は将校4〜5名に付1人程、です。
「とりかえっこ」は無理ですねぇ。いませんから。そんなに当番兵は。
しかし、当時の
これは メッセージ 5131 (samurai_03_japan さん)への返信です.