台湾でも韓国のデモと連帯するアクション
投稿者: nukabosi 投稿日時: 2012/01/09 17:37 投稿番号: [26728 / 29399]
台湾でも韓国の水曜デモ1000回目と連帯するアクション
http://genchi.blog52.fc2.com/blog-entry-370.html
1992年1月から韓国の元日本軍「慰安婦」と市民たちは、毎週水曜日にソウルの日本大使館前で、謝罪と賠償を求めて抗議集会を開いてきました。その1000回目である12月14日には、「平和の碑」(少女像)が設置されるとともに、世界の8ヵ国・44都市で、彼女たちと連帯する行動が展開されました。日本でも同様に、「韓国水曜デモ1000回アクション」がおこなわれ、東京では1300人が「人間の鎖」を作って外務省を包囲しました。
台湾でも、同じ14日、元「慰安婦」を支援してきた婦女救援基金会(台北市婦女救援社會福利事業基金會)、アムネスティ(國際特赦組織)などが、台湾での日本の窓口機関である「交流協会」(台北市)の前で、ロウソクに火を灯し、それを「1000」の字の形に並べて、韓国の元「慰安婦」に連帯を示しつつ、亡くなった元「慰安婦」を追悼し、日本政府に元「慰安婦」たちに正式に謝罪と補償をするよう要求しました。
当日は、夕方から激しい雨に見舞われましたが、100名余りの人が集まりました。民進党の立法委員の黄淑英さんと国民党の元立法委員の雷倩さんも駆けつけて、挨拶をしました。婦女救援基金会のfacebookに多数の写真が掲載されていますが、若い女性の方が多く集まられたようです。
台湾の元「慰安婦」の方々は、昨年5人が亡くなり、今年もすでに3人の方が世を去りました。9月1日には、1992年に台湾で初めて顔や名前を出してこの問題を告発した劉黄阿桃さんも90歳で亡くなりました。台湾のマスコミは、「謝罪を待たずに亡くなった」「恨みをのんで亡くなった」と報じました。その際のテレビ報道もネットに上げられています。
下が、劉黄阿桃さんの生前の証言の一部です。
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ある日、南洋で看護婦の仕事があるという貼り紙を見た友人が一緒に応募しないかと誘ってきました。戦争中だったので、田舎では仕事もなく、男も女もいつ海外に送られるかわからなかったので、どんな仕事でもしたいと思っていました。日本人の一組の男女が私たちを高雄から船でインドネシアへ連れていきました。現地に着いて初めて慰安婦になるのだと知り、怒りがこみ上げて私たちを連れてきた日本人に不満を言いましたが、帰ることもできず、日本人は「国のために軍を労う」という大義名分で私たちに軍人の相手をさせました。
初めての時は血が出て、悲しくて布で包み、家に持ち帰って両親に見せようと思いました。毎日20人以上の相手をさせられました。昼は兵士、夜は将校で、休むことはできません。酒に酔った日本兵から殴られることもありました。日本人の捌け口となるのは辛いことで、いつも目を閉じ、歯を食いしばって耐えました。一度逃げようとしたことがありますが、憲兵に連れ戻され、怨んでもどうすることもできず、毎晩泣いていました。インドネシアではマラリアにかかり、盲腸の手術を受け、右目は爆弾の破片に当って失明し、腹部も負傷して子宮を切除し、本当にひどい日々でした。その後、戦争が拡大し、3年後にようやく台湾に戻りました。
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台湾籍で確認された元「慰安婦」は、58人いるのですが(もちろん実際にはそれよりはるかに多くの方がおられるのでしょう)、婦女救援基金会の執行長の康淑華さんによると、現在生存している方は10人だけになり、その平均年齢も、もう87歳だということです。
(後略)
http://genchi.blog52.fc2.com/blog-entry-370.html
1992年1月から韓国の元日本軍「慰安婦」と市民たちは、毎週水曜日にソウルの日本大使館前で、謝罪と賠償を求めて抗議集会を開いてきました。その1000回目である12月14日には、「平和の碑」(少女像)が設置されるとともに、世界の8ヵ国・44都市で、彼女たちと連帯する行動が展開されました。日本でも同様に、「韓国水曜デモ1000回アクション」がおこなわれ、東京では1300人が「人間の鎖」を作って外務省を包囲しました。
台湾でも、同じ14日、元「慰安婦」を支援してきた婦女救援基金会(台北市婦女救援社會福利事業基金會)、アムネスティ(國際特赦組織)などが、台湾での日本の窓口機関である「交流協会」(台北市)の前で、ロウソクに火を灯し、それを「1000」の字の形に並べて、韓国の元「慰安婦」に連帯を示しつつ、亡くなった元「慰安婦」を追悼し、日本政府に元「慰安婦」たちに正式に謝罪と補償をするよう要求しました。
当日は、夕方から激しい雨に見舞われましたが、100名余りの人が集まりました。民進党の立法委員の黄淑英さんと国民党の元立法委員の雷倩さんも駆けつけて、挨拶をしました。婦女救援基金会のfacebookに多数の写真が掲載されていますが、若い女性の方が多く集まられたようです。
台湾の元「慰安婦」の方々は、昨年5人が亡くなり、今年もすでに3人の方が世を去りました。9月1日には、1992年に台湾で初めて顔や名前を出してこの問題を告発した劉黄阿桃さんも90歳で亡くなりました。台湾のマスコミは、「謝罪を待たずに亡くなった」「恨みをのんで亡くなった」と報じました。その際のテレビ報道もネットに上げられています。
下が、劉黄阿桃さんの生前の証言の一部です。
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ある日、南洋で看護婦の仕事があるという貼り紙を見た友人が一緒に応募しないかと誘ってきました。戦争中だったので、田舎では仕事もなく、男も女もいつ海外に送られるかわからなかったので、どんな仕事でもしたいと思っていました。日本人の一組の男女が私たちを高雄から船でインドネシアへ連れていきました。現地に着いて初めて慰安婦になるのだと知り、怒りがこみ上げて私たちを連れてきた日本人に不満を言いましたが、帰ることもできず、日本人は「国のために軍を労う」という大義名分で私たちに軍人の相手をさせました。
初めての時は血が出て、悲しくて布で包み、家に持ち帰って両親に見せようと思いました。毎日20人以上の相手をさせられました。昼は兵士、夜は将校で、休むことはできません。酒に酔った日本兵から殴られることもありました。日本人の捌け口となるのは辛いことで、いつも目を閉じ、歯を食いしばって耐えました。一度逃げようとしたことがありますが、憲兵に連れ戻され、怨んでもどうすることもできず、毎晩泣いていました。インドネシアではマラリアにかかり、盲腸の手術を受け、右目は爆弾の破片に当って失明し、腹部も負傷して子宮を切除し、本当にひどい日々でした。その後、戦争が拡大し、3年後にようやく台湾に戻りました。
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台湾籍で確認された元「慰安婦」は、58人いるのですが(もちろん実際にはそれよりはるかに多くの方がおられるのでしょう)、婦女救援基金会の執行長の康淑華さんによると、現在生存している方は10人だけになり、その平均年齢も、もう87歳だということです。
(後略)
これは メッセージ 1 (yuukouheiwa さん)への返信です.