Re: 台湾人慰安婦の証言
投稿者: kaze_no_matasaburou_dayo 投稿日時: 2011/12/28 22:01 投稿番号: [26659 / 29399]
祖父は戦時中に熊本の警察から台湾の警察へ異動があり、
終戦まで勤務していたがそのような話はまったくなかった。
祖母、叔父、叔母、母も台湾へ一緒に越して生活していたが、
近所の台湾人とは仲良く暮らしていたということ。
その当時の写真も母や叔父のアルバムに残っているし、
母、叔父、叔母はその当時は小学生であったり中学生であったり
女学校生あったりしていたが、通学も一人で歩いて通っていたが、
特に危険な場所などなかった。
その当時、警察署はアメリカ軍の攻撃で被弾し焼けてしまった。
祖父たちが住んでいた家は門の所が被弾し破壊されてしまったが、
家屋は無事だった。
終戦後は、友人だった台湾人がその家に住み、日本に帰化した
別の台湾人が昭和末期に台湾旅行をした際に、自分たちが住んでいた町や
家屋の様子を見に行ったところ、当時祖父たちが住んでいた家屋は
レンガ造りであったため現存していて懐かしかったという。
母の古い住所録にはその当時台湾で一緒だった人や日本に帰化した台湾人の
名前が並んでおり、その当時を懐かしみ語り合う会が時々開かれていた。
一部の人は既に他界されているが、帰化した台湾人の人からは
跡取りの息子さんからの年賀状が届きます。
台湾は当時同化政策により日本と同じく治安が良く、
日本政府が、広い道路と整備された街並みの住みよい新しい街づくりをしていた。
そして、「ジープ」は基本的に日本にはない車ですよ。
そういう形状の車さえない。
もしその当時日本に屋根のない車があるとすれば、
それはドイツ製のワーゲンでしょう。
「朝日丸」はイタリア製の貨客船であり、戦時中は病院船であったり
軍備や食料の輸送船だった記録が詳細に残っています。
記録では1942年4月28日に佐世保に帰港し、3月に爆撃を受けた修理を
行って後トラック諸島などの南方へ負傷者を運ぶ病院船として行ってはいるが、
インド洋へのそれもインド国東海上のアンダマン島へは向かっていないし、
記録と話の時間軸も合致しない。
アンダマン島はその当時、日本軍は1942年3月23日に南アンダマン島に上陸し、
自由インド仮政府の統治下に置いたのであって、その島で問題があったとすれば
イギリス軍が行ったアンダマン諸島への物資の輸送を阻止する飢餓政策の方が
実際に餓死者が出ているので大きな問題であると思われます。
ところが終戦時にアンダマン諸島関係の数十名の日本人はBC級戦犯として
処刑されているそうです。
話を戻しますが、もし台湾人の被害女性の話が事実に沿ったものであると仮定し、
記録と擦り合わせるならば、当時台湾にいた華僑たちの仕業とも考えられます。
そして船も朝日丸ではなく別の船である可能性が高い。
たとえば、マレーシアで日本人観光客の相手をするレストランは
華僑の経営するものであって、従業員は安い賃金の中国人やマレー人です。
店の中が2分されていて、観光客用の広いスペースと、
現地人や現地のガイド用の安っぽい造りのスペースとなっている所が
多くあります。
こうした華僑の現地人蔑視や不当労働は今もなお続いています。
なお、日本人警察官であれば当時も警察手帳を所持しています。
母が台湾で警察官だった祖父の遺品として所持しているので間違いありません。
とにかく、「勝てば官軍、負ければ賊軍」ということで、
あることないこと日本のせいにされてはたまりません。
終戦まで勤務していたがそのような話はまったくなかった。
祖母、叔父、叔母、母も台湾へ一緒に越して生活していたが、
近所の台湾人とは仲良く暮らしていたということ。
その当時の写真も母や叔父のアルバムに残っているし、
母、叔父、叔母はその当時は小学生であったり中学生であったり
女学校生あったりしていたが、通学も一人で歩いて通っていたが、
特に危険な場所などなかった。
その当時、警察署はアメリカ軍の攻撃で被弾し焼けてしまった。
祖父たちが住んでいた家は門の所が被弾し破壊されてしまったが、
家屋は無事だった。
終戦後は、友人だった台湾人がその家に住み、日本に帰化した
別の台湾人が昭和末期に台湾旅行をした際に、自分たちが住んでいた町や
家屋の様子を見に行ったところ、当時祖父たちが住んでいた家屋は
レンガ造りであったため現存していて懐かしかったという。
母の古い住所録にはその当時台湾で一緒だった人や日本に帰化した台湾人の
名前が並んでおり、その当時を懐かしみ語り合う会が時々開かれていた。
一部の人は既に他界されているが、帰化した台湾人の人からは
跡取りの息子さんからの年賀状が届きます。
台湾は当時同化政策により日本と同じく治安が良く、
日本政府が、広い道路と整備された街並みの住みよい新しい街づくりをしていた。
そして、「ジープ」は基本的に日本にはない車ですよ。
そういう形状の車さえない。
もしその当時日本に屋根のない車があるとすれば、
それはドイツ製のワーゲンでしょう。
「朝日丸」はイタリア製の貨客船であり、戦時中は病院船であったり
軍備や食料の輸送船だった記録が詳細に残っています。
記録では1942年4月28日に佐世保に帰港し、3月に爆撃を受けた修理を
行って後トラック諸島などの南方へ負傷者を運ぶ病院船として行ってはいるが、
インド洋へのそれもインド国東海上のアンダマン島へは向かっていないし、
記録と話の時間軸も合致しない。
アンダマン島はその当時、日本軍は1942年3月23日に南アンダマン島に上陸し、
自由インド仮政府の統治下に置いたのであって、その島で問題があったとすれば
イギリス軍が行ったアンダマン諸島への物資の輸送を阻止する飢餓政策の方が
実際に餓死者が出ているので大きな問題であると思われます。
ところが終戦時にアンダマン諸島関係の数十名の日本人はBC級戦犯として
処刑されているそうです。
話を戻しますが、もし台湾人の被害女性の話が事実に沿ったものであると仮定し、
記録と擦り合わせるならば、当時台湾にいた華僑たちの仕業とも考えられます。
そして船も朝日丸ではなく別の船である可能性が高い。
たとえば、マレーシアで日本人観光客の相手をするレストランは
華僑の経営するものであって、従業員は安い賃金の中国人やマレー人です。
店の中が2分されていて、観光客用の広いスペースと、
現地人や現地のガイド用の安っぽい造りのスペースとなっている所が
多くあります。
こうした華僑の現地人蔑視や不当労働は今もなお続いています。
なお、日本人警察官であれば当時も警察手帳を所持しています。
母が台湾で警察官だった祖父の遺品として所持しているので間違いありません。
とにかく、「勝てば官軍、負ければ賊軍」ということで、
あることないこと日本のせいにされてはたまりません。
これは メッセージ 26644 (fukagawatohei さん)への返信です.