南京大虐殺はなかったようだね!
投稿者: quan_shi_zu 投稿日時: 2003/06/30 04:57 投稿番号: [2401 / 29399]
http://www.history.gr.jp/nanking/generation04.html
実はこの"大虐殺"という単語が始めて使われ始めたのは、ごく最近の話で昭和46(1971)年8月末に「朝日新聞」紙上でレポート記事として本多勝一記者によって取材、掲載された「中国の旅」(上写真参照)によってである
南京大虐殺の言葉が登場するのは
【現在、"南京大虐殺"と呼ばれている事件は】、
昭和21(1946)年5月3日から始まった極東国際軍事裁判(通称・東京裁判)によって日本国民に知られる事となった。
【しかし南京大虐殺"ではなく!】
「この時、東京裁判では、『南京での暴行を"The Rape of Nanking"(南京暴行・南京強姦)』と呼んでいた。」
とでている。
東京裁判から朝日新聞レポート記事「中国の旅」
現在、"南京大虐殺"と呼ばれている事件は、昭和21(1946)年5月3日から始まった極東国際軍事裁判(通称・東京裁判)によって日本国民に知られる事となった。
GHQは世界へ大々的宣伝し日本軍によるナチス=ドイツのアウシビッツと共に人道上の罪として知られる事となった。
この時、東京裁判では、南京での暴行を"The Rape of Nanking"(南京暴行・南京強姦)と呼んでいた。
東京裁判では、連合国側(アメリカ、中国)から昭和12(1937)年12月13日の南京陥落から、このような事件が日本軍によって行われたと告発されたのである。
昭和23年11月12日東京裁判が終了し、12月23日に、南京での事件の罪(訴因55=第3類「通例の戦争犯罪及び人道に関する罪」<戦争法規及び慣例法規違反>同法規尊守義務の無視)によって松井石根大将が巣鴨拘置所で処刑されて以降も、"南京での暴行事件"であるとか"南京での暴虐事件"などと言った呼ばれ方をした。
『ところが当時は戦後まもなくの事でもあり、従軍経験者も多く、さらに南京に駐在した軍関係者、民間人も多数おり新聞記者も数多く滞在していた。
それら人々は南京事件に関しては全面的に否定的であった。』
『東京裁判が閉廷後も、ほとんど事実として認められる事も無く、論じる事も無く、日本人の中にも南京での事件について語るものも全くおらず戦後、日中戦争に関する書籍や文献にも全く引用される事が無く、忘れさられようとしていた。』
『ところが戦争が終わり、実際に南京を見てきた人達が昭和40年代中ごろから新聞社からいなくなると共に、突然あったあったと大騒ぎをし始める。
それが昭和46(1971)年8月末から12月までの間に、「朝日新聞」紙上にて衝撃的なレポートである「中国への旅」という本多勝一記者による記事である。』
【『その為、中国共産党が少しでも気に食わないとマスコミ各社は国外追放を受ける事となった。
昭和42(1967)年のサンケイ、毎日の国外追放理由は、毛沢東の似顔絵を新聞に掲載したというものだった。
また、読売新聞の追放理由は東京で読売新聞が主催するチベット秘宝展を開催したという事だった。
このような些細(ささい)な理由で朝日以外の各社は次々と中国から国外追放とされた。』】
『だが朝日新聞1社だけは、国外追放を免れる為に、中国共産党へ奴隷(どれい)とも言えるような追従記事を平然と掲載し、さらには狂気の文化大革命を賞賛し、誤報や中国共産党の広報紙としての役割を担う事となる。』
朝日新聞の独断上がここから始まる
http://www.history.gr.jp/nanking/reason11.html
中国共産党の記録にもない
実はこの"大虐殺"という単語が始めて使われ始めたのは、ごく最近の話で昭和46(1971)年8月末に「朝日新聞」紙上でレポート記事として本多勝一記者によって取材、掲載された「中国の旅」(上写真参照)によってである
南京大虐殺の言葉が登場するのは
【現在、"南京大虐殺"と呼ばれている事件は】、
昭和21(1946)年5月3日から始まった極東国際軍事裁判(通称・東京裁判)によって日本国民に知られる事となった。
【しかし南京大虐殺"ではなく!】
「この時、東京裁判では、『南京での暴行を"The Rape of Nanking"(南京暴行・南京強姦)』と呼んでいた。」
とでている。
東京裁判から朝日新聞レポート記事「中国の旅」
現在、"南京大虐殺"と呼ばれている事件は、昭和21(1946)年5月3日から始まった極東国際軍事裁判(通称・東京裁判)によって日本国民に知られる事となった。
GHQは世界へ大々的宣伝し日本軍によるナチス=ドイツのアウシビッツと共に人道上の罪として知られる事となった。
この時、東京裁判では、南京での暴行を"The Rape of Nanking"(南京暴行・南京強姦)と呼んでいた。
東京裁判では、連合国側(アメリカ、中国)から昭和12(1937)年12月13日の南京陥落から、このような事件が日本軍によって行われたと告発されたのである。
昭和23年11月12日東京裁判が終了し、12月23日に、南京での事件の罪(訴因55=第3類「通例の戦争犯罪及び人道に関する罪」<戦争法規及び慣例法規違反>同法規尊守義務の無視)によって松井石根大将が巣鴨拘置所で処刑されて以降も、"南京での暴行事件"であるとか"南京での暴虐事件"などと言った呼ばれ方をした。
『ところが当時は戦後まもなくの事でもあり、従軍経験者も多く、さらに南京に駐在した軍関係者、民間人も多数おり新聞記者も数多く滞在していた。
それら人々は南京事件に関しては全面的に否定的であった。』
『東京裁判が閉廷後も、ほとんど事実として認められる事も無く、論じる事も無く、日本人の中にも南京での事件について語るものも全くおらず戦後、日中戦争に関する書籍や文献にも全く引用される事が無く、忘れさられようとしていた。』
『ところが戦争が終わり、実際に南京を見てきた人達が昭和40年代中ごろから新聞社からいなくなると共に、突然あったあったと大騒ぎをし始める。
それが昭和46(1971)年8月末から12月までの間に、「朝日新聞」紙上にて衝撃的なレポートである「中国への旅」という本多勝一記者による記事である。』
【『その為、中国共産党が少しでも気に食わないとマスコミ各社は国外追放を受ける事となった。
昭和42(1967)年のサンケイ、毎日の国外追放理由は、毛沢東の似顔絵を新聞に掲載したというものだった。
また、読売新聞の追放理由は東京で読売新聞が主催するチベット秘宝展を開催したという事だった。
このような些細(ささい)な理由で朝日以外の各社は次々と中国から国外追放とされた。』】
『だが朝日新聞1社だけは、国外追放を免れる為に、中国共産党へ奴隷(どれい)とも言えるような追従記事を平然と掲載し、さらには狂気の文化大革命を賞賛し、誤報や中国共産党の広報紙としての役割を担う事となる。』
朝日新聞の独断上がここから始まる
http://www.history.gr.jp/nanking/reason11.html
中国共産党の記録にもない
これは メッセージ 1 (yuukouheiwa さん)への返信です.