南京大虐殺・従軍慰安婦強制連行は事実

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Re: 関東軍の逃亡 追加

投稿者: maximirion 投稿日時: 2010/10/05 23:21 投稿番号: [23563 / 29399]
「これによれば、在満平民が内地へ帰りたがらなかった。そのときの内地の
様子を思い出せば納得できる。やっと帰る気になったときにはもう手遅れに
なっていた。」


↑在満平民には帰る場所がなくなっていたのだ。だから平民が駅へ押しかけ
て列車に乗ろうと争ったというのは、戦後白痴サヨが捏造したデマである。>

それが事実でのようですね。

当時の満洲居留民にも本土爆撃や本土空襲などの詳しい情報は入ってきていたようです。
自分の家族が、関東軍主力部隊の留守を護る国境防衛の補充兵として関東軍に現地召集されていた人達にとって、ソ連との信義を信じれば内地のが危険であったわけです。

現地邦人以外の住民達からソ連軍の進行を懸念する情報が多々伝えられて、早く撤収した方が良いのではないかと現地邦人には伝えられていたようです。

でも、徴兵された家族や隣人の事もあったりして、満洲に骨を埋める覚悟であった多くの在留邦人達にとって、身を護るために満洲を捨て去ることは最期(死ぬ覚悟だからこの字です)の選択であったようです。
ですから、いよいよソ連が信義を裏切って侵攻するまでは引揚たりせずにいたようです。(それでも万が一に備えて引揚の支度はしていたようですが)

ソ連軍が侵攻してきたら、在留邦人は何故満洲を捨てるのか?
それは、日本人も支那人も関係なくソ連軍の侵攻の下では皆逃げるからです。

私の母に実兄に義兄とその妻子は、満洲の電源開発に際して軍発注で発電機をの運搬と据え付けの為に、発電機と共に大きくもない重量運搬の会社ごと満洲に渡った経営者家族でした。
なので、幼いころから母や伯父や義伯母と義伯父には満洲での話をよく聞かされて育ったわけです。

伯父と義伯父は、現地召集で兵役に行く以前の事まではよく話してくれましたが、それ以降の話はソ連軍の侵攻してくる様子以外詳しくは話してくれませんでした。
義伯母は、引揚の途上で大病を患って意識朦朧状態で母と多くの引揚者が連れ帰った上に、その間に二人いた子供を病気で失ったため、引揚以前の話しかしてくれませんでした。(子供の話はまったくしてくれませんでした)

引揚についての詳しい話は、主に母から聞いております。
他の引揚経験者とも偶然出会って話を聞く機会が何度かありましたが、以前投稿中に書いたことは共通することです。


一方で、友人の中には満洲に居留していた軍属の末裔もいます。
軍司令部に従事する曾祖父と共に満洲に移住していた友人の祖父家族は、民間人とは違った生活をしていたようです。
移住時期は満蒙開拓団とほぼ同時期だったようですから、母達より後の移住ですね。

満蒙開拓団は、母達の移住とは背景も意識も違うので、現地で軍を笠に着て横暴を働く者も少なくなかったようです。
多くの一攫千金狙いのゴロツキが海を渡って満洲に漂着していたわけです。
軍の中には、そういうゴロツキ相手に賄賂を貰って現地住民から土地を取り上げ横流しした士官も少なからずいたようです。

ですから、在留邦人で草原地帯や耕作地を鯨脱された現地住民によって復讐されたのは、満蒙開拓団のなかにしかいないのです。

話を元に戻すと、友人の祖父家族は関東軍主力部隊が南進した後でソ連軍が満洲侵攻する以前の時期に、本国から「ソ連軍侵攻の懸念がある故帰国されたし」の旨を伝える報が齎されたのだそうです。
それを受けた多くの軍属が、用意された列車で満洲を出て朝鮮半経由で帰国したと言っております。

友人の意識では、これも満洲からの「引揚」であるようですが、これは引揚ではなく撤収です。
もちろん、軍人はこの際に撤収などしておりません。

戦後の物言いでは、「引揚者」も「撤収者」も区別なく”引き上げ”と言ったりする無分別や、「引揚」ではなく「撤収」とあるから”逃げた”に違いないといった決めつけが横行しているわけです。
英米の占領下で画策した”言語及び文字調整”によるウィルス侵攻が功を奏しているのでしょう。

情けない限りです。
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