Lieber 唐平さん
投稿者: steffi_10121976 投稿日時: 2010/09/21 01:03 投稿番号: [22750 / 29399]
初秋の三連休、いかがお過ごしでいらっしゃいましたでしょうか?
●>戦争はしょせん殺し合いでしょう。勝ったほうが法律なんですよ。
残念ながら、戦争そのものを罪として裁く法体系が存在しない以上、戦争という国家間の“法律行為”にそうした側面が存在することは事実でしょう。
けれども、「法律を論じても何の意味もない」で片付けてしまっては、国際連盟規約〜不戦条約〜国連憲章へと(不完全ながらも)継承されていった、戦争違法化へ向けての先人たちの努力はいったいどうなってしまうのでしょうか?
唐平さんのお考えはつまるところ、19世紀的な「無差別戦争論」への回帰にほかならないのではありませんか?
●>昭和バカ店やA級戦犯の岸信介が処刑されなかったのも、アメリカが日本の戦後処理に役立たてるために、利用したわけでしょう。
そもそも昭和天皇も岸も、何ひとつ犯罪を犯していなかったのですから、戦犯として訴追されることそのものがあり得るはずがなかったのです。
ここは唐平さんとは決して歩み寄れない点だと思いますけれども。
●>それは、Steffiさんが戦争の実態を知らないだけでしょうね。
確かに私は戦争というものを実体験としては知りません。
それゆえに私の“戦争観”が、ともすると観念的なものに陥りがちになる危険性は常に自覚しているつもりですし、それを修正するために唐平さんのような世代のかたのご意見には、積極的かつ謙虚に耳を傾けるべきと自戒しております。
けれども、(ものすごく生意気な物言いであることを承知の上で申しあげますと)逆に戦争を生身のご経験としてご存知の方は、そのあまりにお辛かった体験による“心的外傷”のせいで、往々にして厭戦感情のみが突出してしまい、戦争を取り巻くさまざまな政治的・社会的・法的背景について、論理的な考察をされることそれ自体を拒否される一面があるのではないかという気もしているのです(以前お話しした私の祖父の意識なども、たぶんこの範疇に入るのではないかと思います)。
もとよりそれを批判する資格など私にはありません。
けれども、戦争で悲惨な目にあった国は日本だけではありませんし、ただ平和憲法を掲げているだけで日本がこれからも永劫に戦争とかかわらなくてすむ保証などどこにもないのも事実です。
およそ歴史上の戦争のなかで、当事者のどちらか一方にのみ全面的な非がある戦争など、ひとつとして存在しません。
さきの大戦において、当時の日本やそれを取り巻く国際社会においてどのような政治的・軍事的力学が働いていたのか、そうした環境の中で日本がなぜ戦争という手段を採らざるを得なかったのか、そして終戦に至る一連のプロセスのなかで国家としての日本がどこかで判断ミスを犯したとしたら、それはいついかなる要因によるものだったのか、ということを冷静に分析し、考察し、反省べきところは反省することこそ、真の平和国家として求められる姿勢と私は考えております。
戦争を頭から否定する、あるいは戦争について一切の思考を拒否することだけで平和が保てるのならば、何の苦労もないのではありませんか?
●>天皇や軍部を批判しただけで、拷問され、殺される、これって人道的なんでしょうか。
ほんとうに“それだけ”の理由で殺された人がいたのですか?
でしたら、その事実を示す、客観性のある証拠をお教えいただけますでしょうか?
●>ドイツでは、ヒットラーが何万人という身体障害者、精神障害者、ジプシーを殺害して、赤十字から非難されたのはSteffiさんもご存知でしょう。多分、Steffiさんはホロコーストは戦争じゃないというでしょうが、
もちろん何度でも申しあげます。
ナチスのホロコーストは国家の明確な意思のもとに組織的に行なわれた人類史上稀有の犯罪行為です。
戦争とは何の関係もありません。
●>大量の民間人が殺戮される現代戦で法律を論ずることにどんな意味があるのかわかりません。問題は法律論ではなく、人間の憎しみの連鎖を断ち切るにはどうすべきが考える事が必要だと思います。(中略)これから人類に必要なのは法律論ではなく人間論だと思います。
もちろんヒューマニズム的視点も必要なことは認めます。
けれども戦争という“国際紛争解決のための主権国家による合法的な行為”を根本的になくすためには、戦争を違法なものとする国際的な法体系の構築以外に方策はありません。
もちろんすぐに達成できる課題とは誰も信じていないでしょう。
けれどもこれを忌避していては、人類はいつまでも中世ヨーロッパの騎士道における「決闘の法理」から進歩することはできないということもまた自明の理です。
your Steffi
●>戦争はしょせん殺し合いでしょう。勝ったほうが法律なんですよ。
残念ながら、戦争そのものを罪として裁く法体系が存在しない以上、戦争という国家間の“法律行為”にそうした側面が存在することは事実でしょう。
けれども、「法律を論じても何の意味もない」で片付けてしまっては、国際連盟規約〜不戦条約〜国連憲章へと(不完全ながらも)継承されていった、戦争違法化へ向けての先人たちの努力はいったいどうなってしまうのでしょうか?
唐平さんのお考えはつまるところ、19世紀的な「無差別戦争論」への回帰にほかならないのではありませんか?
●>昭和バカ店やA級戦犯の岸信介が処刑されなかったのも、アメリカが日本の戦後処理に役立たてるために、利用したわけでしょう。
そもそも昭和天皇も岸も、何ひとつ犯罪を犯していなかったのですから、戦犯として訴追されることそのものがあり得るはずがなかったのです。
ここは唐平さんとは決して歩み寄れない点だと思いますけれども。
●>それは、Steffiさんが戦争の実態を知らないだけでしょうね。
確かに私は戦争というものを実体験としては知りません。
それゆえに私の“戦争観”が、ともすると観念的なものに陥りがちになる危険性は常に自覚しているつもりですし、それを修正するために唐平さんのような世代のかたのご意見には、積極的かつ謙虚に耳を傾けるべきと自戒しております。
けれども、(ものすごく生意気な物言いであることを承知の上で申しあげますと)逆に戦争を生身のご経験としてご存知の方は、そのあまりにお辛かった体験による“心的外傷”のせいで、往々にして厭戦感情のみが突出してしまい、戦争を取り巻くさまざまな政治的・社会的・法的背景について、論理的な考察をされることそれ自体を拒否される一面があるのではないかという気もしているのです(以前お話しした私の祖父の意識なども、たぶんこの範疇に入るのではないかと思います)。
もとよりそれを批判する資格など私にはありません。
けれども、戦争で悲惨な目にあった国は日本だけではありませんし、ただ平和憲法を掲げているだけで日本がこれからも永劫に戦争とかかわらなくてすむ保証などどこにもないのも事実です。
およそ歴史上の戦争のなかで、当事者のどちらか一方にのみ全面的な非がある戦争など、ひとつとして存在しません。
さきの大戦において、当時の日本やそれを取り巻く国際社会においてどのような政治的・軍事的力学が働いていたのか、そうした環境の中で日本がなぜ戦争という手段を採らざるを得なかったのか、そして終戦に至る一連のプロセスのなかで国家としての日本がどこかで判断ミスを犯したとしたら、それはいついかなる要因によるものだったのか、ということを冷静に分析し、考察し、反省べきところは反省することこそ、真の平和国家として求められる姿勢と私は考えております。
戦争を頭から否定する、あるいは戦争について一切の思考を拒否することだけで平和が保てるのならば、何の苦労もないのではありませんか?
●>天皇や軍部を批判しただけで、拷問され、殺される、これって人道的なんでしょうか。
ほんとうに“それだけ”の理由で殺された人がいたのですか?
でしたら、その事実を示す、客観性のある証拠をお教えいただけますでしょうか?
●>ドイツでは、ヒットラーが何万人という身体障害者、精神障害者、ジプシーを殺害して、赤十字から非難されたのはSteffiさんもご存知でしょう。多分、Steffiさんはホロコーストは戦争じゃないというでしょうが、
もちろん何度でも申しあげます。
ナチスのホロコーストは国家の明確な意思のもとに組織的に行なわれた人類史上稀有の犯罪行為です。
戦争とは何の関係もありません。
●>大量の民間人が殺戮される現代戦で法律を論ずることにどんな意味があるのかわかりません。問題は法律論ではなく、人間の憎しみの連鎖を断ち切るにはどうすべきが考える事が必要だと思います。(中略)これから人類に必要なのは法律論ではなく人間論だと思います。
もちろんヒューマニズム的視点も必要なことは認めます。
けれども戦争という“国際紛争解決のための主権国家による合法的な行為”を根本的になくすためには、戦争を違法なものとする国際的な法体系の構築以外に方策はありません。
もちろんすぐに達成できる課題とは誰も信じていないでしょう。
けれどもこれを忌避していては、人類はいつまでも中世ヨーロッパの騎士道における「決闘の法理」から進歩することはできないということもまた自明の理です。
your Steffi
これは メッセージ 22365 (fukagawatohei さん)への返信です.