唐平さんへ②
投稿者: steffi_10121976 投稿日時: 2010/08/22 17:37 投稿番号: [21851 / 29399]
(21850よりつづく)
●>これからの世界の潮流は「個人あっての国家」になるでしょうね:
それはどうでしょうか?
さきほどアンソニーさんへのレスでも書かせていただいたのですけれども、現代の民主主義社会においては、「個人」と「国家」とは必ずしも相対立する概念ではなく、むしろ「国家」は「個人」の利益共同体としての位置づけになるのではないかと思います。
その意味で「国家あっての個人」と申しあげました。
「個人」の利益は組織、つまりある種のスケールメリットの存在によって、より有効に担保されるという一面があることは否定できないと思いますけれども、その最大のユニットである「国家」を動かす主権者は「個人」であるという国民主権の大原則が健全に機能しているかぎり、「国家」が(最大公約数的な)「個人」と利益相反関係になるという局面は理屈のうえでは考えにくいのではありませんか?
●>「人間の安全保障」とは、武力紛争、暴力、貧困、環境破壊、HIV/エイズを含む感染症など世界の人々が直面する広範で深刻な脅威に対し、人間の視点からより包括的で 効果的に対処していこうとする考え方です。
「人間の視点」はけっこうですけれども、実際問題として、このような活動分野こそまさに国家もしくは国家群がその強力な主権行使の一環として主導権を握らなければ達成できないのではありませんか?
個人やNGOが「人間の視点」だけでいくら束になって頑張ったとしても、どうにもならない領域だと思いますよ。
私たちの生活を見渡してみても、ライフライン、交通網、治安維持、消防、災害救援、国防など、個人や私企業が単独で努力しても到底手にすることのできない高度な公共サービスはいくらでもあります。
個の尊重が大切なことは言うまでもありません。
けれどもそれが極端に強調されるあまり、私たちが個の尊厳を保つために不可欠とされる要素の大部分が、国家という組織に連なっているがゆえのものであるという現実を軽視してはならないと思います。
●>しかし、国と国の関係も突き詰めれば、人間と人間の関係です。
そうお考えになる唐平さんの純粋さにはそれなりの敬意を払いますけれども、私は主権国家同士の関係は個人対個人の関係とはまったく異質の力学が働くという認識を持っています。
その差はどこに由来するのかを考えてみると、結局統治機構の有無ということになるのではないでしょうか?
およそどのような国家であれ、国家法はその国の国民をいっさいの例外なく普遍的に律します。
そして個々の国民はその法的制約、つまり自国の統治機構の枠組みの中でのみ、それぞれの利益を追求することが許されます。
これに対して、主権国家間にはそのような統治機構は存在しません。
もちろん国際法や国際機関という概念はありますけれども、それが国家対国民の関係のように、排他的・絶対的に個別の国々を拘束するわけではありません。
つまり、国家は基本的に何らの制約を受けることなくその利益(国益)を追求する権利を有するということになります(それに伴うすべてのリスクを甘受するという認識が大前提であることは言うまでもありません)。
これは上位に国家という強大な統治機構が存在する個人対個人の利益追求パターンとは根本的に異なる意思決定メカニズムです。
従って、私は唐平さんのように「国と国の関係も突き詰めれば、人間と人間の関係」と割り切ることは、今の段階ではとてもできません。
特に相手が国民の総意に基づかない全体主義国家の場合は、なおさらそのような幻想を抱くことは禁物と思っています。
●>証拠がなければ何をしても良いという人間がいるから、こんな悲惨な事件が起きるんじゃ〜ないですか:
唐平さんは、故意か勘違いかは存じませんけれども、ときどきチョー頓珍漢なレスをなさいますね。
いつ私が「証拠がなければ何をしても良い」などと申しあげましたか?
私がdorawasabi5001 さんに申しあげたことは、「裏づけの取れていない証言や不確実な物証だけで、特定の個人や組織を犯罪者呼ばわりすることは許されない」というごく常識的なことなのですよ。
そしてunhooさんご指摘のとおり、ミドリ十字の事件をもって七三一部隊の“犯罪”の“傍証”とする論法はまったく論理性を欠く、きわめて感情的な議論だと思います。
ヨーロッパ企業の決算期末を控え、しばらく多忙な日々が続きます。
今後もお返事には少々お時間を頂戴することが多くなりますことをお許しくださいませ。
deine Steffi
●>これからの世界の潮流は「個人あっての国家」になるでしょうね:
それはどうでしょうか?
さきほどアンソニーさんへのレスでも書かせていただいたのですけれども、現代の民主主義社会においては、「個人」と「国家」とは必ずしも相対立する概念ではなく、むしろ「国家」は「個人」の利益共同体としての位置づけになるのではないかと思います。
その意味で「国家あっての個人」と申しあげました。
「個人」の利益は組織、つまりある種のスケールメリットの存在によって、より有効に担保されるという一面があることは否定できないと思いますけれども、その最大のユニットである「国家」を動かす主権者は「個人」であるという国民主権の大原則が健全に機能しているかぎり、「国家」が(最大公約数的な)「個人」と利益相反関係になるという局面は理屈のうえでは考えにくいのではありませんか?
●>「人間の安全保障」とは、武力紛争、暴力、貧困、環境破壊、HIV/エイズを含む感染症など世界の人々が直面する広範で深刻な脅威に対し、人間の視点からより包括的で 効果的に対処していこうとする考え方です。
「人間の視点」はけっこうですけれども、実際問題として、このような活動分野こそまさに国家もしくは国家群がその強力な主権行使の一環として主導権を握らなければ達成できないのではありませんか?
個人やNGOが「人間の視点」だけでいくら束になって頑張ったとしても、どうにもならない領域だと思いますよ。
私たちの生活を見渡してみても、ライフライン、交通網、治安維持、消防、災害救援、国防など、個人や私企業が単独で努力しても到底手にすることのできない高度な公共サービスはいくらでもあります。
個の尊重が大切なことは言うまでもありません。
けれどもそれが極端に強調されるあまり、私たちが個の尊厳を保つために不可欠とされる要素の大部分が、国家という組織に連なっているがゆえのものであるという現実を軽視してはならないと思います。
●>しかし、国と国の関係も突き詰めれば、人間と人間の関係です。
そうお考えになる唐平さんの純粋さにはそれなりの敬意を払いますけれども、私は主権国家同士の関係は個人対個人の関係とはまったく異質の力学が働くという認識を持っています。
その差はどこに由来するのかを考えてみると、結局統治機構の有無ということになるのではないでしょうか?
およそどのような国家であれ、国家法はその国の国民をいっさいの例外なく普遍的に律します。
そして個々の国民はその法的制約、つまり自国の統治機構の枠組みの中でのみ、それぞれの利益を追求することが許されます。
これに対して、主権国家間にはそのような統治機構は存在しません。
もちろん国際法や国際機関という概念はありますけれども、それが国家対国民の関係のように、排他的・絶対的に個別の国々を拘束するわけではありません。
つまり、国家は基本的に何らの制約を受けることなくその利益(国益)を追求する権利を有するということになります(それに伴うすべてのリスクを甘受するという認識が大前提であることは言うまでもありません)。
これは上位に国家という強大な統治機構が存在する個人対個人の利益追求パターンとは根本的に異なる意思決定メカニズムです。
従って、私は唐平さんのように「国と国の関係も突き詰めれば、人間と人間の関係」と割り切ることは、今の段階ではとてもできません。
特に相手が国民の総意に基づかない全体主義国家の場合は、なおさらそのような幻想を抱くことは禁物と思っています。
●>証拠がなければ何をしても良いという人間がいるから、こんな悲惨な事件が起きるんじゃ〜ないですか:
唐平さんは、故意か勘違いかは存じませんけれども、ときどきチョー頓珍漢なレスをなさいますね。
いつ私が「証拠がなければ何をしても良い」などと申しあげましたか?
私がdorawasabi5001 さんに申しあげたことは、「裏づけの取れていない証言や不確実な物証だけで、特定の個人や組織を犯罪者呼ばわりすることは許されない」というごく常識的なことなのですよ。
そしてunhooさんご指摘のとおり、ミドリ十字の事件をもって七三一部隊の“犯罪”の“傍証”とする論法はまったく論理性を欠く、きわめて感情的な議論だと思います。
ヨーロッパ企業の決算期末を控え、しばらく多忙な日々が続きます。
今後もお返事には少々お時間を頂戴することが多くなりますことをお許しくださいませ。
deine Steffi
これは メッセージ 21812 (fukagawatohei さん)への返信です.