日本の占領区は「楽園」だった3
投稿者: kin_wen_xue 投稿日時: 2007/12/20 09:47 投稿番号: [19852 / 29399]
金文学著『中国人による中国人大批判』−日本は謝罪してはならない−
祥伝社黄金文庫
176〜180p
一九三五年十月、「北上抗日」の名目で長征をした共産党中央と紅軍は、陝西(せんせい)省北部に来て、「抗日民主根拠地」、つまり解放区を発足させます。
・・・・
一九三九年十二月、毛沢東ら中共中央は、「知識人を大量に吸収する」政策を取り、淪陥区から数千人の知識人が延安に入りました。
しかし、知識人たちは、延安に入ってまもなくその実態に驚き、失望を禁じえませんでした。
・・・・
延安では共産党幹部が、生活全般から異性にいたるまですべてにおいて独占権を有し、老幹部が若い女性知識人を妻とすることは流行でもありました。
毛沢東が賀子珍(かしちん)と離婚の手続きもせずに、若い女優江青(こうせい)と結婚したのは有名な話です。
『間隔』という小説は、このような結婚の矛盾について辛辣に批判したものです。
若い知識人女性は共産党老幹部との結婚を必死に拒否します。
また老幹部も西洋近代文化に侵された「洋包子」(洋式知識人)に違和感を抱いているために、必ずしもこの結婚話を喜んでばかりいたわけではありません。
それでも党組織の強制によって結婚は成立します。
有名な評論家王実味(おうじつび)は、『野百合』などの文章を通じて延安における「衣分三色、食分五等(共産党独裁による特権、等級制度)」や厳しい戦時中なのに「歌囀玉堂春、舞回金蓮歩(歌ったり踊ったり娯楽にふけるさま)」など共産党の不抗戦と腐敗享受について鋭い批判を加えていました。
これに対して、毛沢東ら中共では「整風」の美名の下で、大量に知識人を粛清するキャンペーンを行ない、王実味をはじめ、丁玲(ていれい)、艾青(がいせい)など数多くの知識人が弾圧を受けました。
それは、当時革命に憧れて延安に来た多くの知識人にとっては「楽園」ではないばかりか、紛れもなく「地獄」でした。
だから、「解放区」は一種の「弾圧区」、「独裁区」と化したことは事実です。
一九四二年五月、毛沢東は著名な『文芸講和』を発表し、文芸は政治に従属するとの理論を唱えました。つまり中国の文芸は、共産党の政治のために存在し、共産党の政策を民衆に宣伝し、教育し、敵を打撃、消滅させる武器として規定されました。
これはその後、共産党の文芸方針として長く活用され、新中国成立後の文芸聖旨ともなりました。
「解放区」における、このような言論統制、独裁的弾圧は、一九四九年以来、各種の全国的キャンペーンや文化大革命のような「地獄」の修羅場を生んだモデルとして働いていました。
さらに、解放区延安で麻薬を栽培して、淪陥区に販売されていたことは、これまであまり知られていませんでしたが、一章でも述べたとおり(65ページ)、最近海外の中国人知識人によって明かされるようになりました。
一言で言えば、当時の「解放区」延安は、今日の悪夢の国、北朝鮮と変わらないシステムだったと言っても過言ではないでしょう。
次回につづく
祥伝社黄金文庫
176〜180p
一九三五年十月、「北上抗日」の名目で長征をした共産党中央と紅軍は、陝西(せんせい)省北部に来て、「抗日民主根拠地」、つまり解放区を発足させます。
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一九三九年十二月、毛沢東ら中共中央は、「知識人を大量に吸収する」政策を取り、淪陥区から数千人の知識人が延安に入りました。
しかし、知識人たちは、延安に入ってまもなくその実態に驚き、失望を禁じえませんでした。
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延安では共産党幹部が、生活全般から異性にいたるまですべてにおいて独占権を有し、老幹部が若い女性知識人を妻とすることは流行でもありました。
毛沢東が賀子珍(かしちん)と離婚の手続きもせずに、若い女優江青(こうせい)と結婚したのは有名な話です。
『間隔』という小説は、このような結婚の矛盾について辛辣に批判したものです。
若い知識人女性は共産党老幹部との結婚を必死に拒否します。
また老幹部も西洋近代文化に侵された「洋包子」(洋式知識人)に違和感を抱いているために、必ずしもこの結婚話を喜んでばかりいたわけではありません。
それでも党組織の強制によって結婚は成立します。
有名な評論家王実味(おうじつび)は、『野百合』などの文章を通じて延安における「衣分三色、食分五等(共産党独裁による特権、等級制度)」や厳しい戦時中なのに「歌囀玉堂春、舞回金蓮歩(歌ったり踊ったり娯楽にふけるさま)」など共産党の不抗戦と腐敗享受について鋭い批判を加えていました。
これに対して、毛沢東ら中共では「整風」の美名の下で、大量に知識人を粛清するキャンペーンを行ない、王実味をはじめ、丁玲(ていれい)、艾青(がいせい)など数多くの知識人が弾圧を受けました。
それは、当時革命に憧れて延安に来た多くの知識人にとっては「楽園」ではないばかりか、紛れもなく「地獄」でした。
だから、「解放区」は一種の「弾圧区」、「独裁区」と化したことは事実です。
一九四二年五月、毛沢東は著名な『文芸講和』を発表し、文芸は政治に従属するとの理論を唱えました。つまり中国の文芸は、共産党の政治のために存在し、共産党の政策を民衆に宣伝し、教育し、敵を打撃、消滅させる武器として規定されました。
これはその後、共産党の文芸方針として長く活用され、新中国成立後の文芸聖旨ともなりました。
「解放区」における、このような言論統制、独裁的弾圧は、一九四九年以来、各種の全国的キャンペーンや文化大革命のような「地獄」の修羅場を生んだモデルとして働いていました。
さらに、解放区延安で麻薬を栽培して、淪陥区に販売されていたことは、これまであまり知られていませんでしたが、一章でも述べたとおり(65ページ)、最近海外の中国人知識人によって明かされるようになりました。
一言で言えば、当時の「解放区」延安は、今日の悪夢の国、北朝鮮と変わらないシステムだったと言っても過言ではないでしょう。
次回につづく
これは メッセージ 19851 (kin_wen_xue さん)への返信です.