南京攻防戦の責任は中国にある1
投稿者: kin_wen_xue 投稿日時: 2007/12/12 10:40 投稿番号: [19760 / 29399]
金文学著『中国人による中国人大批判』−日本は謝罪してはならない−
祥伝社黄金文庫
70〜72p
「南京大虐殺」は、今日の中国における「過去日本軍侵略」のシンボルであり、反日教育、日本帝国主義への恨みを煽(あお)る究極のカードとして使われています。
その実相をめぐっては、現在も「三〇万人大虐殺」説があれば「事実無根」説もあるように、激論が続いており、容易に結論が出るとも思えません。
しかし中国では、「三〇万人」説で決定していて、これに異論を差し挟むことは許されません。
そして「南京大虐殺」は、日本の侵略性、軍国主義、残虐性を攻撃する中国側の最強の外交カードとして利用されています。
いわば「反日憎日」の〝錦の御旗″とも〝葵の御紋″ともいえるものです。
ですが、「南京大虐殺」が実際にあったならば、わたしはまず中国側に一次的原因があったと思います。
なぜかというと、「大虐殺」を生んだ原因である南京戦は、未然に防げたし、それ自体は中国側には何の意味もない戦いだったからです。
一九三七年十一月九日、上海の陥落後、蒋介石をはじめ、何応欽、李宗仁など大多数の国民軍首脳メンバーたちは、戦略的にも戦力的にも南京を固守する意味がないと判断し、放棄を主張したのに対し、唐生智一人だけが「南京は首都であり、国父陵(孫文の墓)の所在地だ。我国のために俺は南京を必死で守り、南京と生死をともにする!」と防衛戦を主張しました。
湖南(こなん)軍閥出身の唐は、国民政府では功名もなく冷遇された将領だったので、この南京戦をチャンスにして、自分の軍権を取り戻したかったのです。彼の激昂(げっこう)した「愛国主義」的主張を、内心では無謀と思いながらも、蒋介石さえも止めようがなかったのです。
十一月十五日、蒋介石は首都を南京から重慶に遷すことを決定し、十一月二十一日までに南京から撤退、二十七日には南京在留の外国人に避難勧告を発しました。本人の希望どおり南京衛戊(えいじゅ)軍(防衛軍)司令官に任ぜられた唐生智は、南京と存亡をともにすると誓約し、衛戊軍将兵とともに南京に残りました。
南京市内の難民らを保護するため、残留した一六人の外国人で「南京安全区国際委員会(ドイツ人のジョン・ラーべが委員長)」が結成され、城内に「安全区」を特設し、難民をそこへ避難させました。
日本軍は、十二月一日南京攻略を決定、松井石根大将は九日の朝、「平和開城の勧告文」を飛行機で城内に散布して、開城すれば攻撃しないと約束しました。
しかし十日午後一時までに返事がなければ総攻撃をすると通告したにもかかわらず、唐生智はこれを無視したため、十日午後、日本軍は総攻撃に踏み切りました。
つづく
これは メッセージ 1 (yuukouheiwa さん)への返信です.
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