「空襲軍律論」の欺瞞②
投稿者: steffi_10121976 投稿日時: 2007/09/02 08:04 投稿番号: [19266 / 29399]
【4】仮に連合国の主張を無視して、東京裁判を軍律裁判と位置づけたとしても、下記により、「平和に対する罪」で裁くことは不可能である。
●そもそも満州事変以降の日本の一連の軍事行動が、一方的な侵略行為であったとは言い切れない。
少なくとも不戦条約が禁じた"aggressive war"(挑発を受けざる侵攻戦争)でなかったことは明白である。
●仮に百歩譲って、日本の行動が"aggressive war"であったとしても、不戦条約は"jus ad bellun"(戦争という手段に訴えること自体を規制する国際法)であり、ハーグ法のような"jus in bello"(戦争の存在を所与の条件とし、その中での交戦行為や中立国の行動を規制する国際法)ではない。
ゆえに、同条約違反をもって個人の行動を裁くことは出来ない。
●仮にもう百歩譲って、不戦条約が"jus in bello"だとしても、同条約違反つまり"aggressive war"の立案・遂行が国際犯罪であるという法理が存在しなければ、当事国を裁くことは出来ない。
しかし戦争は、それがどんなに露骨な侵攻戦争であったとしても、それ自体が犯罪とされたことはない。
不戦条約下にそのような法理など存在しなかったことは、発効のわずか4年前(1924年)に、侵略戦争を国際犯罪と明記した「国際紛争平和的処理議定書」が各国の批准が得られないまま葬り去られたという事実からも明らかである。
また同条約違反とされたイタリアのエチオピア侵攻やソ連のフィンランド侵攻の際も、それらが犯罪であるという議論はいっさいなされていない。
こうした事情は現在の国連体制下においてもまったく同様で、たとえ国連憲章に違反する戦争であってもそれが犯罪とはされていないということは、国連発足後も限りなく繰り返されてきた数々の武力紛争の実態、および国連国際法委員会が2001年9月に総会に提出した国家責任法の最終草案において“国家の国際犯罪”という項目が完全に削除されたという事実からも明らかである。
●仮にさらにもう百歩譲って、国際条約に反する戦争が国家の犯罪だとしても、国家の機関として行なった個人の行動には刑事免責が認められる(“国家行為の法理”)ため、それを理由に個人が裁かれることはあり得ない。
【5】これらに関連してしばしば見かけるのが「日本はポツダム宣言という降伏文書を受諾したのだから、いかなる処断であろうとも受け容れるのは当然だ」という破れかぶれの論調。
中には「特別法であるポ宣言は、一般法である不戦条約に優先する」などと、一見もっともらしい理屈をつけたものもある。
しかし、ポ宣言第10条で「厳重なる処罰の対象」とされたのは、あくまでも「(一切の)戦争犯罪人」であり、仮に日本の行政指導者たちの行動が不戦条約違反だったとしても、それがここでいう戦争犯罪に該当しない限り、そのようなロジックなど成り立たないことは自明の理である。
事実、東京裁判の開廷にあたって清瀬弁護人から「平和に対する罪」「人道に対する罪」の管轄権を問われた裁判長ウェッブは返答に窮し、結局これを説明することが出来なかったのであるから、連合国側でもポ宣言起草時にそのような法理を想定していなかったことは明白であろう。
要するにすべては「チャーター」による後付である。
ポ宣言受諾云々の主張をする者は、それに先立って「不戦条約違反=個人の犯罪」という法理が確実に存在していたことを客観的な疎明資料をもって立証する義務がある。
最後にもういちどA論に戻るが、「日本が先に事後法で裁いたのだから、自らが事後法で裁かれても当然だ」という論理は、「最初にアジアを侵略したのは欧米であるから、日本が同様にアジアを侵略しても当然だ」という言い分をも成立せしめる(実際に日本の行為が侵略であったか否かという点、およびその道義的な善悪はまた別の議論である)。
また、東京裁判における連合国の正当性を絶対視する論者たちは、同裁判をでっち上げた張本人であるマッカーサー自身が後に「日本が大東亜戦争に赴いたのは安全保障のためであった」「東京裁判は失敗であった」と証言していることについて、自らの主張との整合性を説明すべきであろう。
your Steffi
●そもそも満州事変以降の日本の一連の軍事行動が、一方的な侵略行為であったとは言い切れない。
少なくとも不戦条約が禁じた"aggressive war"(挑発を受けざる侵攻戦争)でなかったことは明白である。
●仮に百歩譲って、日本の行動が"aggressive war"であったとしても、不戦条約は"jus ad bellun"(戦争という手段に訴えること自体を規制する国際法)であり、ハーグ法のような"jus in bello"(戦争の存在を所与の条件とし、その中での交戦行為や中立国の行動を規制する国際法)ではない。
ゆえに、同条約違反をもって個人の行動を裁くことは出来ない。
●仮にもう百歩譲って、不戦条約が"jus in bello"だとしても、同条約違反つまり"aggressive war"の立案・遂行が国際犯罪であるという法理が存在しなければ、当事国を裁くことは出来ない。
しかし戦争は、それがどんなに露骨な侵攻戦争であったとしても、それ自体が犯罪とされたことはない。
不戦条約下にそのような法理など存在しなかったことは、発効のわずか4年前(1924年)に、侵略戦争を国際犯罪と明記した「国際紛争平和的処理議定書」が各国の批准が得られないまま葬り去られたという事実からも明らかである。
また同条約違反とされたイタリアのエチオピア侵攻やソ連のフィンランド侵攻の際も、それらが犯罪であるという議論はいっさいなされていない。
こうした事情は現在の国連体制下においてもまったく同様で、たとえ国連憲章に違反する戦争であってもそれが犯罪とはされていないということは、国連発足後も限りなく繰り返されてきた数々の武力紛争の実態、および国連国際法委員会が2001年9月に総会に提出した国家責任法の最終草案において“国家の国際犯罪”という項目が完全に削除されたという事実からも明らかである。
●仮にさらにもう百歩譲って、国際条約に反する戦争が国家の犯罪だとしても、国家の機関として行なった個人の行動には刑事免責が認められる(“国家行為の法理”)ため、それを理由に個人が裁かれることはあり得ない。
【5】これらに関連してしばしば見かけるのが「日本はポツダム宣言という降伏文書を受諾したのだから、いかなる処断であろうとも受け容れるのは当然だ」という破れかぶれの論調。
中には「特別法であるポ宣言は、一般法である不戦条約に優先する」などと、一見もっともらしい理屈をつけたものもある。
しかし、ポ宣言第10条で「厳重なる処罰の対象」とされたのは、あくまでも「(一切の)戦争犯罪人」であり、仮に日本の行政指導者たちの行動が不戦条約違反だったとしても、それがここでいう戦争犯罪に該当しない限り、そのようなロジックなど成り立たないことは自明の理である。
事実、東京裁判の開廷にあたって清瀬弁護人から「平和に対する罪」「人道に対する罪」の管轄権を問われた裁判長ウェッブは返答に窮し、結局これを説明することが出来なかったのであるから、連合国側でもポ宣言起草時にそのような法理を想定していなかったことは明白であろう。
要するにすべては「チャーター」による後付である。
ポ宣言受諾云々の主張をする者は、それに先立って「不戦条約違反=個人の犯罪」という法理が確実に存在していたことを客観的な疎明資料をもって立証する義務がある。
最後にもういちどA論に戻るが、「日本が先に事後法で裁いたのだから、自らが事後法で裁かれても当然だ」という論理は、「最初にアジアを侵略したのは欧米であるから、日本が同様にアジアを侵略しても当然だ」という言い分をも成立せしめる(実際に日本の行為が侵略であったか否かという点、およびその道義的な善悪はまた別の議論である)。
また、東京裁判における連合国の正当性を絶対視する論者たちは、同裁判をでっち上げた張本人であるマッカーサー自身が後に「日本が大東亜戦争に赴いたのは安全保障のためであった」「東京裁判は失敗であった」と証言していることについて、自らの主張との整合性を説明すべきであろう。
your Steffi
これは メッセージ 19264 (steffi_10121976 さん)への返信です.