南京大虐殺・従軍慰安婦強制連行は事実

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誤解をする方があるやも知れませんので、

投稿者: donndokodonn123 投稿日時: 2003/06/11 12:02 投稿番号: [1776 / 29399]
補足しておきますと、

文玉珠さんは、訴状で【文玉珠は、1924年4月3日に慶尚北道大邱で生まれた。父と母は働いていたが、決まった仕事はなかった。大邱の大明洞の借家に住んでいたが、火葬場が隣にあるようなところであった。兄弟は男二人女二人で、文玉珠は上から三番目であった。文玉珠の家族は、いつも食べるものがなくお腹がへっていた。米など食べられなかった。貧しい人だけが行く市立の夜間学校に三年間行ったところで、お金がなく中退せざるを得なかった。その後、朝鮮人や日本人の家の女中にいき、洗濯や掃除をした。五年くらい女中をしてから、家の近くの靴下の家内工場で2〜3時間働いた。その後しばらくは家にいた。当時は仕事があまりなく、失業をしていたのである。そんな時に、文玉珠は少し顔を知っていた男から「ちょっと遠いところだが、食堂で働けばお金が儲かる」という話を聞かされた。その男は大邱に住んでいる朝鮮人だが、洋服を着てネクタイをして靴を履いていた。その男の名は宋で、日本名は松本と言った。
どこへ行くのか聞いたら、はっきりとは教えてくれなかったが、「暖かい国だ」と言ったので、外国に行くのだと思った。松本は「故郷に金を送ったら家族が楽に暮らせる」というので、文玉珠は生活が苦しいので、やむなく行くことにした。20日後に出発することになった。家族に知られたら叱られて行かせてもらえないので、誰にも知らせないまま家を出た。従って家からは何も持ち出せなかった。出発前にはお金はもらえず、着いてから必要なものは何でもくれるということをきかされた。1942年7月9日に、今と同じ場所にあった大邱駅から汽車で釜山に出発した。松本は文玉珠を含め、15歳から21歳の女を17人集めていた。その日は釜山の「甲乙旅館」という旅館に泊まり、翌日船に乗った。親に何も言ってこなかったので、釜山港を出る時には、悲しくて涙が出た。】

と、言っていたんですが、それを見た日本人研究者が「これは強制連行ではない」と主張し始めた途端、

聞き取り証言では、【1940年、私は満16歳になりました。この年の秋の暮れのある日、私はハルコの家に行って遊びました。日が沈みかけたので、私はハルコの家を出て自分の家に向かった。まだいくらも歩かないうちに、日本の軍服を着て非常に長い刀を差し、左の方に赤い腕章をした男が私に近寄って来ました。彼は突然、私の腕を引っ張って、日本語で何か言いました。その頃は、巡査という言葉を聞くことさえ恐ろしい時代だったので、私は何も言えず彼に引っ張れるまま連れて行かれました。その人は、ひとしきり腕をつかんで行った後、私を先に立てて歩いていきました。連れて行かれた先は、憲兵隊だとと思われます。そこには、私と同じ年頃の女の子が一人先に来ていました。(略)大邱に帰った私は、他家に住み込んで働いたりしながら一年ばかり過ごしました。大明洞の近所に、偶然知り合った友人がいました。1942年7月のはじめ、この友人が「お金をたくさんくれる食堂に行こうと思うんだけど、あんたも行かない?」と聞きました。私はもうだめにされた身体だと思っていたので、どうせのことならお金でもたくさん稼ごうと思って、すぐ承知しました。次の日、私は家族にも黙ってそっと家を出て、その友人と一緒に釜山行きの列車に身を託しました。私は何としてもお金をもうけて、私たちのため苦労している母を助けてあげたかったのです。】

と中味を変えたということです。
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