「南京攻防戦」と「上海決戦」は別
投稿者: picsaintloup 投稿日時: 2007/05/30 13:03 投稿番号: [16246 / 29399]
>南京事件が(ねれぎね)だと?
バカこくな。
南京に攻め込んだ日本軍の部隊は、九個師団と一個師団、およそ20万人。
「上海決戦」(1937.10.10〜10.26)と間違えていませんか?
「上海決戦」では、ドイツ人軍事顧問が「第一次大戦」の経験を活かして築いた「ゼートク・ライン」に「国民党軍」25個師団約35万人が布陣(「ゼートク・ライン」後方も含めると53個師団約75万人が布陣)し待ち構えていたので、「上海派遣軍」司令官松井石根大将は7個師団約20万人では足りないと判断し、さらに2個師団約5万人の増派を要請。
こうして「ゼートク・ライン」を巡り、「国民党軍」約75万人と「日本軍」約25万人の激しい戦闘が繰り広げられたのでした。
「上海決戦」は「ゼートク・ライン」が強固な上、ドイツ人軍事顧問が指揮していたので大変な激戦となり、「上海派遣軍」は約3万8000人の死傷者を出して、ようやくこれを突破することに成功しました。
敗れた「国民党軍」は戦死傷者数不明ながら、少なくとも「日本軍」の数倍の戦死傷者を出し(10万人を超える戦死傷者が出ていることは間違いないでしょう)、総崩れとなって撤退していき、これに対する「日本軍」の追撃戦が展開されたわけです。
「南京攻防戦」(1937.12.13〜12.17)は、この追撃戦の延長線上のものと位置付けられないことはないでしょうが、基本的には全く別の戦略的目的を持った「首都攻防戦」でした。
「南京攻防戦」に参加した陣容は、「上海派遣軍」の中の「第9師団」「第16師団」と「第13師団・歩兵第103旅団」「第3師団・歩兵第68連隊」、及び「第10軍」の中の「第6師団」「第18師団」「第114師団」と「第5師団・国崎支隊」、その他少数の直属部隊(「第3飛行団」「中支方面軍・鉄道隊」「中支方面軍・通信隊」)だけで、全軍合わせても20万人もいませんでしたし、実際「南京城内」に入ったのは、約5万人に過ぎません。
南京を防衛していた唐生智司令官が率いる「南京衛戌軍」も、1937年12月9日の時点で雑兵も含めて8万1000人(譚道平「南京衛戌軍・司令部参謀処・第一科長」証言)と、蒋介石総統の重慶逃亡の11月20日頃の水準よりかなり少なくなっていましたし、12月12日(戦闘開始前夜)に唐生智司令官までが逃亡するに及んで、「国民党軍」は指揮系統が乱れ、逃亡兵が続出して、混乱していたわけですから、5万人も入れば十分だったわけです。
中国側の資料にも、「南京攻防戦」での戦死者は3万3000人となっていますから、最大限見ても「南京攻防戦」はその程度の戦闘だったわけです。
ところが、いつも間にか兵士の戦死者以外に、20万人を超える市民の無差別虐殺があったという話が持ち出され、一部ではそれがあたかも事実であるかのように流布されていますが、これは南京市民の大多数が外国人の管理する「国際安全区」に避難していたことを考えればあり得ない話です。
その点を突かれると、「実は市民の虐殺の大部分は、『南京城外』で起こったことであり、つまり『上海決戦』後の『日本軍』の敗残兵追討戦の過程で起きた話である」などと逃げるのがマニュアル化しているようです。
しかし、それでは従来言われている「南京虐殺」とは、随分違う話になってきていると言わざるを得ないのではないでしょうか。
南京に攻め込んだ日本軍の部隊は、九個師団と一個師団、およそ20万人。
「上海決戦」(1937.10.10〜10.26)と間違えていませんか?
「上海決戦」では、ドイツ人軍事顧問が「第一次大戦」の経験を活かして築いた「ゼートク・ライン」に「国民党軍」25個師団約35万人が布陣(「ゼートク・ライン」後方も含めると53個師団約75万人が布陣)し待ち構えていたので、「上海派遣軍」司令官松井石根大将は7個師団約20万人では足りないと判断し、さらに2個師団約5万人の増派を要請。
こうして「ゼートク・ライン」を巡り、「国民党軍」約75万人と「日本軍」約25万人の激しい戦闘が繰り広げられたのでした。
「上海決戦」は「ゼートク・ライン」が強固な上、ドイツ人軍事顧問が指揮していたので大変な激戦となり、「上海派遣軍」は約3万8000人の死傷者を出して、ようやくこれを突破することに成功しました。
敗れた「国民党軍」は戦死傷者数不明ながら、少なくとも「日本軍」の数倍の戦死傷者を出し(10万人を超える戦死傷者が出ていることは間違いないでしょう)、総崩れとなって撤退していき、これに対する「日本軍」の追撃戦が展開されたわけです。
「南京攻防戦」(1937.12.13〜12.17)は、この追撃戦の延長線上のものと位置付けられないことはないでしょうが、基本的には全く別の戦略的目的を持った「首都攻防戦」でした。
「南京攻防戦」に参加した陣容は、「上海派遣軍」の中の「第9師団」「第16師団」と「第13師団・歩兵第103旅団」「第3師団・歩兵第68連隊」、及び「第10軍」の中の「第6師団」「第18師団」「第114師団」と「第5師団・国崎支隊」、その他少数の直属部隊(「第3飛行団」「中支方面軍・鉄道隊」「中支方面軍・通信隊」)だけで、全軍合わせても20万人もいませんでしたし、実際「南京城内」に入ったのは、約5万人に過ぎません。
南京を防衛していた唐生智司令官が率いる「南京衛戌軍」も、1937年12月9日の時点で雑兵も含めて8万1000人(譚道平「南京衛戌軍・司令部参謀処・第一科長」証言)と、蒋介石総統の重慶逃亡の11月20日頃の水準よりかなり少なくなっていましたし、12月12日(戦闘開始前夜)に唐生智司令官までが逃亡するに及んで、「国民党軍」は指揮系統が乱れ、逃亡兵が続出して、混乱していたわけですから、5万人も入れば十分だったわけです。
中国側の資料にも、「南京攻防戦」での戦死者は3万3000人となっていますから、最大限見ても「南京攻防戦」はその程度の戦闘だったわけです。
ところが、いつも間にか兵士の戦死者以外に、20万人を超える市民の無差別虐殺があったという話が持ち出され、一部ではそれがあたかも事実であるかのように流布されていますが、これは南京市民の大多数が外国人の管理する「国際安全区」に避難していたことを考えればあり得ない話です。
その点を突かれると、「実は市民の虐殺の大部分は、『南京城外』で起こったことであり、つまり『上海決戦』後の『日本軍』の敗残兵追討戦の過程で起きた話である」などと逃げるのがマニュアル化しているようです。
しかし、それでは従来言われている「南京虐殺」とは、随分違う話になってきていると言わざるを得ないのではないでしょうか。
これは メッセージ 16243 (fukagawatohei さん)への返信です.