昔からの人肉食文化 (前半)
投稿者: deliciousicecoffee 投稿日時: 2007/01/15 23:45 投稿番号: [13225 / 29399]
もっと資料があったことを思い出しました。
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=NW&action=5&board=1143582&tid=cf2zbfml16a6ob9qjx2ua1aa&sid=1143582&mid=4803
中国人の悪習に過ぎないものを、旧日本軍の残虐行為のごとく喧伝されるに到っては黙ってはいられません。理論武装の一助として、乏しい知識の一端を。既に絶版になってますが『中国食物史』(篠田統著、柴田書店、初版昭和49年)という篤実な労作があります。
中国史を膨大な資料にもとづき「食」の観点でとらえたユニークな通史です。そして、著者の偏見なき目配りの良さの一端が、中国の食人癖について淡々と触れた後述引用の各節にもっともよく現れています。ながくなりますが、引用させてください。なお、頁数は私が保有している初版四刷(昭和52年6月、函入布装)に依っています。<>は引用者注で、主として用字に関する註です。
(引用開始)p22「春秋に入っても、斉の桓公の料理人易牙<エキガ>もその国政にあずかっている。因みに、桓公が美食に飽きて人肉を所望したとき、易牙がわが子を料理して差上げたことは有名な伝承である。以後、この国の食物史に人肉食の実例は度々出てくるが、、、、、」
p122-123「唐代をおえるにあたって、この国の食人癖について付け加えておこう。
飢饉や戦争での食人はしばしば出てくる。一寸前になるが、南朝梁の叛将侯景は南京城をあれだけの目にあわせたので、人々の怨みは深く、彼が王僧辯<言ではなくりっとう>に捕殺された時、民衆は武帝の娘なる彼の細君ともども、肉は食べて終い、骨は焼いて灰にして、酒に入れて飲んでしまった。
が、随・唐以後歴史の表面に大きく出てくるのは、趣味、または嗜好としての食人である。
隋末唐初の流賊朱燦<火偏なし>は二十万の手下をつれて天下を横行し、糧が尽きると所在の民衆を食べている。到るところで小児・婦人を料理して部下一同に配り、赤ん坊の蒸したのを特に好んだ。人から人肉の味をきかれると「のんべの肉が一番だ」と答えた。以上は正史に出ているので、小説、たとえば煬帝の運河開鑿をとりあつかった『開河記』などには、もっともっと物凄い例が出ている。
則天武后(在位690〜705)の時、杭州臨安の尉(警察部長?)セツ震は人肉好きで、借金を取り立てに来た男と従者とを共に食べてしまい、更にその後家さんに魔手をのばしたが、逃げられ、一件発覚して杖殺された。旋州刺史(長官)の独孤荘も人肉好きだったが、さすがに人を殺すまではせず、奴婢の死んだのを食べていた。
降って徳宗(在位780〜805)の頃の節度使張茂昭は食人の噂が高かったので、ある人がその噂の真偽をただしたところ、「アンなもん、生臭くって食えるかい」と答えた。食べもせずにどうして「生臭い」ことが判るかと評判だった。
キ宗<キはにんべんに喜>中和三年(883)の黄巣の乱の折は、賊が人肉用の向上を特設し、数百の臼をならべ、良民を生きながら打ちくだき、ガイ(ひきうす)でひいて骨ごと食用にあてていた。
食用としてではなく、迷信としての食人もあった。『酉陽雑俎』巻九に、七人組の盗賊が、人肉をたべると人が眼をさまさないからとて、職業上の必要からいつも人肉を食べていたことが出ている。
唐代における食人の例は、この他にもいくらもあるが、玄宗の開元(713〜742)の頃の医師陳蔵器が『本草拾遺』をあらわし、人肉が病に効くと書いたから、このような戦時・飢饉時ではなく、全くの平時にもこの風が多くひろまった。明の李時珍が名著『本草綱目』において、医師として人道を誤まり、多くの人を毒したものとして、口をきわめて蔵器を責めている。
さりながら、蔵器の影響は後のちまでも著しく、孝子節婦が親のため、舅姑のために股を割くことが一種のモードとなった。元以後、明・清と中央政府は一応これを禁止したが、現実には空文で、地方官憲はどしどし表彰し、記念碑を建てたりするから、一向なくならない。今次戦争中、私が北京にいた五年間にも二〜三例あったやに記憶する。但し、表彰されるのは自分の股を割いた場合だけで、他人を殺して医療にあてる分は厳重に取締られていたが。」
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=NW&action=5&board=1143582&tid=cf2zbfml16a6ob9qjx2ua1aa&sid=1143582&mid=4803
中国人の悪習に過ぎないものを、旧日本軍の残虐行為のごとく喧伝されるに到っては黙ってはいられません。理論武装の一助として、乏しい知識の一端を。既に絶版になってますが『中国食物史』(篠田統著、柴田書店、初版昭和49年)という篤実な労作があります。
中国史を膨大な資料にもとづき「食」の観点でとらえたユニークな通史です。そして、著者の偏見なき目配りの良さの一端が、中国の食人癖について淡々と触れた後述引用の各節にもっともよく現れています。ながくなりますが、引用させてください。なお、頁数は私が保有している初版四刷(昭和52年6月、函入布装)に依っています。<>は引用者注で、主として用字に関する註です。
(引用開始)p22「春秋に入っても、斉の桓公の料理人易牙<エキガ>もその国政にあずかっている。因みに、桓公が美食に飽きて人肉を所望したとき、易牙がわが子を料理して差上げたことは有名な伝承である。以後、この国の食物史に人肉食の実例は度々出てくるが、、、、、」
p122-123「唐代をおえるにあたって、この国の食人癖について付け加えておこう。
飢饉や戦争での食人はしばしば出てくる。一寸前になるが、南朝梁の叛将侯景は南京城をあれだけの目にあわせたので、人々の怨みは深く、彼が王僧辯<言ではなくりっとう>に捕殺された時、民衆は武帝の娘なる彼の細君ともども、肉は食べて終い、骨は焼いて灰にして、酒に入れて飲んでしまった。
が、随・唐以後歴史の表面に大きく出てくるのは、趣味、または嗜好としての食人である。
隋末唐初の流賊朱燦<火偏なし>は二十万の手下をつれて天下を横行し、糧が尽きると所在の民衆を食べている。到るところで小児・婦人を料理して部下一同に配り、赤ん坊の蒸したのを特に好んだ。人から人肉の味をきかれると「のんべの肉が一番だ」と答えた。以上は正史に出ているので、小説、たとえば煬帝の運河開鑿をとりあつかった『開河記』などには、もっともっと物凄い例が出ている。
則天武后(在位690〜705)の時、杭州臨安の尉(警察部長?)セツ震は人肉好きで、借金を取り立てに来た男と従者とを共に食べてしまい、更にその後家さんに魔手をのばしたが、逃げられ、一件発覚して杖殺された。旋州刺史(長官)の独孤荘も人肉好きだったが、さすがに人を殺すまではせず、奴婢の死んだのを食べていた。
降って徳宗(在位780〜805)の頃の節度使張茂昭は食人の噂が高かったので、ある人がその噂の真偽をただしたところ、「アンなもん、生臭くって食えるかい」と答えた。食べもせずにどうして「生臭い」ことが判るかと評判だった。
キ宗<キはにんべんに喜>中和三年(883)の黄巣の乱の折は、賊が人肉用の向上を特設し、数百の臼をならべ、良民を生きながら打ちくだき、ガイ(ひきうす)でひいて骨ごと食用にあてていた。
食用としてではなく、迷信としての食人もあった。『酉陽雑俎』巻九に、七人組の盗賊が、人肉をたべると人が眼をさまさないからとて、職業上の必要からいつも人肉を食べていたことが出ている。
唐代における食人の例は、この他にもいくらもあるが、玄宗の開元(713〜742)の頃の医師陳蔵器が『本草拾遺』をあらわし、人肉が病に効くと書いたから、このような戦時・飢饉時ではなく、全くの平時にもこの風が多くひろまった。明の李時珍が名著『本草綱目』において、医師として人道を誤まり、多くの人を毒したものとして、口をきわめて蔵器を責めている。
さりながら、蔵器の影響は後のちまでも著しく、孝子節婦が親のため、舅姑のために股を割くことが一種のモードとなった。元以後、明・清と中央政府は一応これを禁止したが、現実には空文で、地方官憲はどしどし表彰し、記念碑を建てたりするから、一向なくならない。今次戦争中、私が北京にいた五年間にも二〜三例あったやに記憶する。但し、表彰されるのは自分の股を割いた場合だけで、他人を殺して医療にあてる分は厳重に取締られていたが。」
これは メッセージ 13034 (deliciousicecoffee さん)への返信です.