Re: >Re: 横レス>客観的に証明できる証言
投稿者: dorawasabi5001 投稿日時: 2006/04/08 23:50 投稿番号: [11682 / 29399]
RAAの事が出ていましたが・・・
実際は、米軍から指令される前に
敗戦直後に、【日本政府が企図して】実行しています。
★大日本帝国は嫌いだ
【慰安婦文化?】敗戦から3日後、女郎屋に70億円前払いした日本政府
従軍慰安婦で有名な、世界一スケベな日本軍。
「軍隊には慰安婦が必要」は日本軍にしみわたった常識だった。
そこで終戦のわずか3日後、
【日本政府は米軍からの要求もないのに、自発的に売春施設の設置に踏込んだのだ。】
他の敗戦国、ドイツやイタリアは、こんな馬鹿げたことはしなかった。
敗戦から3日目の8月18日、内務省警保局長は全国の警察に無電で
「外国軍駐屯地における慰安施設に関する内務省警保局長通牒」秘密指令を発し、
占領軍専用の「慰安施設」を 特設するよう指示した。
発案者は国務大臣近衛文麿。
準備は最大限の慎重さで行い、 施設に入れる女性の調達には地方の警察署長があたり、売春業者や関係者を 動員すべしとされた。
朝鮮半島での慰安婦強制連行には慰安婦の証言に警察官がよく出て来るが、やはり政府から見ても警察が慰安所の担当であったようだ。
ほかにもいろいろ考えることがありそうなものですが、まず考えたことが慰安所の設置だったという発想がスバラシイ。
「一般婦女を米兵の強姦から守るため」としているが、
占領すればすぐ強姦を始める日本軍の行状を知りすぎていたから、
この様な発想になったのは明白だろう。
翌19日、内閣副総理(近衛文麿)はこの案件の指揮を警視総監にみずからとってほしいと要請したが、その数日後には方針が変更され、
この種の施設の運営に日本政府が直接関与するのはまずいということになり、これ以後の政府の役割は、この事業を背後から支えることに変わった。
慰安所の設置の仕方は、警察が指導して業者にやらせる方式で、
各地に「特殊慰安施設協(RAA)」が設立された。東京で33ヶ所、ほかの約20の都市でも作られた。
警察から事業を請負った業者は、
公認官庁として内務省、外務省などの名を連ねたチラシで
「18〜25歳迄宿舎・被服・食糧支給」と広告、
「昭和の唐人お吉、日本民族の血統を守る人柱」と訓辞した。
応募の女性に「水商売」経験者は殆どなく、大半が貧しい身なりで、裸足の女性もいたという。
面接で仕事の内容を知って大半の女性は去っていったが、 それでも発足前に東京で1360人の女性が登録した。
慰安婦募集と設備費などに、政府運営の勧業銀行は業者達に3,000万円(現在の価値およそ70億円)の前払い金を用意したが、
この時、【業者たちは皇居前に集結し、「天皇陛下万歳」と叫んだという。】
昭和天皇はこのことを知っていたのだろうか…?
東京銀座街頭に「新日本女性に告ぐ」と募集広告をだしたのも、もちろん警察のバックアップがあってのこと。
広島などの例をみると、当時の金で県費36万円を追加計上し、
「資金は立て替える、女は警察が募集する」と業者に持ちかけている。
県警保安課は設営第一、設営第二、接遇第一、接遇第二と係をわけてまで慰安所開設に専念したほどだ。
このようにして、かなり大々的な慰安所設置が行われ、
この結果、戦後の混乱の中で食料の確保にも事欠く家庭の女性たちを売春へと走らせることともなった。
日本政府のサービスに応じて、アメリカ兵にも慰安所は大人気ではあったが、
しかし、性病の蔓延によりGHQにより1946年1月21日に公娼廃止に関する覚書が出され、
3月にはRAA所属の慰安所へ将兵が立入ることを禁止する命令が出され、RAAは閉鎖された。
施設の廃止とともに追い出された女性たちには退職金もなかったという。
3カ月で慰安所は閉鎖されたわけだが、
この間に「政府の努力」で増加し、1万人に達した慰安婦たちは、路頭に迷い、非公認の街娼となって行った。
いわゆるパンパン、パンスケである。
実際は、米軍から指令される前に
敗戦直後に、【日本政府が企図して】実行しています。
★大日本帝国は嫌いだ
【慰安婦文化?】敗戦から3日後、女郎屋に70億円前払いした日本政府
従軍慰安婦で有名な、世界一スケベな日本軍。
「軍隊には慰安婦が必要」は日本軍にしみわたった常識だった。
そこで終戦のわずか3日後、
【日本政府は米軍からの要求もないのに、自発的に売春施設の設置に踏込んだのだ。】
他の敗戦国、ドイツやイタリアは、こんな馬鹿げたことはしなかった。
敗戦から3日目の8月18日、内務省警保局長は全国の警察に無電で
「外国軍駐屯地における慰安施設に関する内務省警保局長通牒」秘密指令を発し、
占領軍専用の「慰安施設」を 特設するよう指示した。
発案者は国務大臣近衛文麿。
準備は最大限の慎重さで行い、 施設に入れる女性の調達には地方の警察署長があたり、売春業者や関係者を 動員すべしとされた。
朝鮮半島での慰安婦強制連行には慰安婦の証言に警察官がよく出て来るが、やはり政府から見ても警察が慰安所の担当であったようだ。
ほかにもいろいろ考えることがありそうなものですが、まず考えたことが慰安所の設置だったという発想がスバラシイ。
「一般婦女を米兵の強姦から守るため」としているが、
占領すればすぐ強姦を始める日本軍の行状を知りすぎていたから、
この様な発想になったのは明白だろう。
翌19日、内閣副総理(近衛文麿)はこの案件の指揮を警視総監にみずからとってほしいと要請したが、その数日後には方針が変更され、
この種の施設の運営に日本政府が直接関与するのはまずいということになり、これ以後の政府の役割は、この事業を背後から支えることに変わった。
慰安所の設置の仕方は、警察が指導して業者にやらせる方式で、
各地に「特殊慰安施設協(RAA)」が設立された。東京で33ヶ所、ほかの約20の都市でも作られた。
警察から事業を請負った業者は、
公認官庁として内務省、外務省などの名を連ねたチラシで
「18〜25歳迄宿舎・被服・食糧支給」と広告、
「昭和の唐人お吉、日本民族の血統を守る人柱」と訓辞した。
応募の女性に「水商売」経験者は殆どなく、大半が貧しい身なりで、裸足の女性もいたという。
面接で仕事の内容を知って大半の女性は去っていったが、 それでも発足前に東京で1360人の女性が登録した。
慰安婦募集と設備費などに、政府運営の勧業銀行は業者達に3,000万円(現在の価値およそ70億円)の前払い金を用意したが、
この時、【業者たちは皇居前に集結し、「天皇陛下万歳」と叫んだという。】
昭和天皇はこのことを知っていたのだろうか…?
東京銀座街頭に「新日本女性に告ぐ」と募集広告をだしたのも、もちろん警察のバックアップがあってのこと。
広島などの例をみると、当時の金で県費36万円を追加計上し、
「資金は立て替える、女は警察が募集する」と業者に持ちかけている。
県警保安課は設営第一、設営第二、接遇第一、接遇第二と係をわけてまで慰安所開設に専念したほどだ。
このようにして、かなり大々的な慰安所設置が行われ、
この結果、戦後の混乱の中で食料の確保にも事欠く家庭の女性たちを売春へと走らせることともなった。
日本政府のサービスに応じて、アメリカ兵にも慰安所は大人気ではあったが、
しかし、性病の蔓延によりGHQにより1946年1月21日に公娼廃止に関する覚書が出され、
3月にはRAA所属の慰安所へ将兵が立入ることを禁止する命令が出され、RAAは閉鎖された。
施設の廃止とともに追い出された女性たちには退職金もなかったという。
3カ月で慰安所は閉鎖されたわけだが、
この間に「政府の努力」で増加し、1万人に達した慰安婦たちは、路頭に迷い、非公認の街娼となって行った。
いわゆるパンパン、パンスケである。
これは メッセージ 11677 (practice_theory さん)への返信です.