Re: yousunwai君 (横です)
投稿者: deliciousicecoffee 投稿日時: 2006/03/09 21:34 投稿番号: [11160 / 29399]
>ただし、当時の失敗を分析(私流に言うなら反省)することは大事で、今後にいかすことはできると思います。
当時の失敗とは、例えば何のことでしょう。
日本国民の生命や財産を守るために戦ったことが「失敗」だったのですか?
>核兵器の破棄という理想が、現実的に無理だと分かっていても、タイトルだけを掲げておくことに意味があると思っています。そして、来年だめでも、もしかしたら5年後に可能になるかもしれない。それでもだめなら、10年、20年。。。そうした思いを繋げて行くことに意味があると思っています。
そんなのは、マイナスの意味しかありませんよ。
支那が核兵器で日本を狙っていて、将来も廃棄する意思が全くない以上、日本の最善策は核武装以外に有り得ません。
>しかし、そこで、畑を耕し、生活していた現地の人には、そうではなかったのではないでしょうか?
日本の防衛戦争とは全く関係のないことです。
支那事変が始まる前から、多くの支那人が満州事変後に建国された満州国になだれ込んで行って畑を耕しました。
すなわち、支那人たちは日本軍占領地で畑を耕したかったのです。
(参考資料)
――――――――
■日本軍は金を払った
「1月25日(曇)きょうは、発電所に2名の使役をだす。分隊は正門から約2キロの部落へ、野菜と食糧の徴発に行った。しかし、軍票がないので、日本円で払うと、土民は喜び、鶏卵まで加えてくれた」(46頁)
「2月6日(晴後曇、時々小雪) 分隊の何名かを残して徴発に行く。土民も段々好意を持つようになった。軍票がないので、幾らかの日本銭を与えると『謝謝』と笑顔で送ってくれる。」(49頁)
「4月5日(晴) きょうは勤務はない。昨日のこと(注:松江付近における敵の急襲)もあるので、いつ非常出勤があるかも知れない。野菜不足のため、城外に徴発に行く。農民は、我々がいつも金を与える関係で喜んで野菜を売ってくれる。またわれわれのためにすこし備蓄しておいてくれるらしい。」(72頁)
長谷川秋広上等兵の私家版『戦火の揚子江を行く』より引用
Ω Ω Ω Ω
■支那軍(不逞支那人)は略奪した
私家版の片山兵二著『郷土部隊と共に歩んだ「わが青春の中国大陸従軍譚」』(昭和52年)
以下は佐藤己三男准尉から聞いた南京陥落から四ヶ月後の湯山の模様。
「どうも油断がならなくてね。昨夜も付近烽火を合図に数十名の敗残兵が現れ、良民から金品を強奪して行きました。そのため毎日討伐をやり、警戒を厳重にしていますよ」(347頁)
大坪鉄三郎准尉と長倉久徳一等兵が語る、湯山の南の句容の状況。
「この近くの部落へ十五名ばかりの強盗がやってきて、主人(農夫)を竈の上に吊り上げ、火あぶりにしたが、それが丁度、憲兵隊が使っているコックの実家なので、すぐに報告があり、今朝二手に分かれて討伐をやったのです。・・・奴らの残忍性にはあきれます。
農民を火あぶりにした上、金を奪い取り、憲兵隊へ密告せば命がないぞと脅していくので、農民はブルブル震えて仕事が手につかないのです、そのためわれわれが行くと喜び親しんでイスをすすめ、お茶を出して歓待してくれますよ」(349頁〜350頁)
『1937南京攻略戦の真実』東中野修道編著(小学館文庫)より引用
――――――――
>もちろん、だからと言って、欧米や中国共産党・国民党や朝鮮にとやかく言われたくないですが。。。彼らも同じように現地の人を苦しめたのですからね。
現地の人を苦しめたのは支那共産党・国民党や支那の盗賊であって、日本軍も同じように苦しめたような言い方はやめて下さい。
>でも、日本・中国共産党・国民党・欧米・朝鮮は、そこに生きていた現地の人、1人1人に本来は、謝罪すべきです。
どうして、支那共産党・国民党や支那の盗賊が苦しめた現地の人、一人一人に日本が謝罪すべきなのか理解できません。
いずれにせよ、満州事変以降、現地の人たちは日本軍が居る所を目指して移動したのです。
日本軍が居た所に大量になだれ込んで来た人たちに対して、何の理由で日本が謝罪するのですか?
当時の失敗とは、例えば何のことでしょう。
日本国民の生命や財産を守るために戦ったことが「失敗」だったのですか?
>核兵器の破棄という理想が、現実的に無理だと分かっていても、タイトルだけを掲げておくことに意味があると思っています。そして、来年だめでも、もしかしたら5年後に可能になるかもしれない。それでもだめなら、10年、20年。。。そうした思いを繋げて行くことに意味があると思っています。
そんなのは、マイナスの意味しかありませんよ。
支那が核兵器で日本を狙っていて、将来も廃棄する意思が全くない以上、日本の最善策は核武装以外に有り得ません。
>しかし、そこで、畑を耕し、生活していた現地の人には、そうではなかったのではないでしょうか?
日本の防衛戦争とは全く関係のないことです。
支那事変が始まる前から、多くの支那人が満州事変後に建国された満州国になだれ込んで行って畑を耕しました。
すなわち、支那人たちは日本軍占領地で畑を耕したかったのです。
(参考資料)
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■日本軍は金を払った
「1月25日(曇)きょうは、発電所に2名の使役をだす。分隊は正門から約2キロの部落へ、野菜と食糧の徴発に行った。しかし、軍票がないので、日本円で払うと、土民は喜び、鶏卵まで加えてくれた」(46頁)
「2月6日(晴後曇、時々小雪) 分隊の何名かを残して徴発に行く。土民も段々好意を持つようになった。軍票がないので、幾らかの日本銭を与えると『謝謝』と笑顔で送ってくれる。」(49頁)
「4月5日(晴) きょうは勤務はない。昨日のこと(注:松江付近における敵の急襲)もあるので、いつ非常出勤があるかも知れない。野菜不足のため、城外に徴発に行く。農民は、我々がいつも金を与える関係で喜んで野菜を売ってくれる。またわれわれのためにすこし備蓄しておいてくれるらしい。」(72頁)
長谷川秋広上等兵の私家版『戦火の揚子江を行く』より引用
Ω Ω Ω Ω
■支那軍(不逞支那人)は略奪した
私家版の片山兵二著『郷土部隊と共に歩んだ「わが青春の中国大陸従軍譚」』(昭和52年)
以下は佐藤己三男准尉から聞いた南京陥落から四ヶ月後の湯山の模様。
「どうも油断がならなくてね。昨夜も付近烽火を合図に数十名の敗残兵が現れ、良民から金品を強奪して行きました。そのため毎日討伐をやり、警戒を厳重にしていますよ」(347頁)
大坪鉄三郎准尉と長倉久徳一等兵が語る、湯山の南の句容の状況。
「この近くの部落へ十五名ばかりの強盗がやってきて、主人(農夫)を竈の上に吊り上げ、火あぶりにしたが、それが丁度、憲兵隊が使っているコックの実家なので、すぐに報告があり、今朝二手に分かれて討伐をやったのです。・・・奴らの残忍性にはあきれます。
農民を火あぶりにした上、金を奪い取り、憲兵隊へ密告せば命がないぞと脅していくので、農民はブルブル震えて仕事が手につかないのです、そのためわれわれが行くと喜び親しんでイスをすすめ、お茶を出して歓待してくれますよ」(349頁〜350頁)
『1937南京攻略戦の真実』東中野修道編著(小学館文庫)より引用
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>もちろん、だからと言って、欧米や中国共産党・国民党や朝鮮にとやかく言われたくないですが。。。彼らも同じように現地の人を苦しめたのですからね。
現地の人を苦しめたのは支那共産党・国民党や支那の盗賊であって、日本軍も同じように苦しめたような言い方はやめて下さい。
>でも、日本・中国共産党・国民党・欧米・朝鮮は、そこに生きていた現地の人、1人1人に本来は、謝罪すべきです。
どうして、支那共産党・国民党や支那の盗賊が苦しめた現地の人、一人一人に日本が謝罪すべきなのか理解できません。
いずれにせよ、満州事変以降、現地の人たちは日本軍が居る所を目指して移動したのです。
日本軍が居た所に大量になだれ込んで来た人たちに対して、何の理由で日本が謝罪するのですか?
これは メッセージ 11157 (yousunwai さん)への返信です.