国民党の嘘宣伝は2回蘇った
投稿者: deliciousicecoffee 投稿日時: 2006/06/17 00:17 投稿番号: [9930 / 41162]
『南京事件――国民党極秘文書から読み解く』で述べているように、当初「南京虐殺」は国民党が日本軍の蛮行を流布するために外国人を使って宣伝した嘘だった。
当時は世間から相手にされずに終わった。
ところが、8年後GHQが「南京虐殺」を東京裁判という復讐リンチ茶番劇のネタとして蘇らせた。
GHQは、「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」(戦争への罪悪感を日本人の心に植えつけるための宣伝計画)に基づき『南京大虐殺』という事件を捏造し、東京裁判や、NHKのラジオ番組『真相はかうだ』や『真相箱』などで宣伝した。
主に2つの目的が考えられ、一つは原爆投下など連合軍側の戦争犯罪を揉み消すこと、もう一つは日本人に贖罪意識を植え付けて二度と戦争が出来ない腑抜け・腰抜けにすること。
東京裁判で証拠とされたのは主に3つ。
1.南京など各所で裁かれて断罪されてしまった無実の者の長い表
2.埋葬記録
3.証言
1.東京裁判に先立って行われた南京軍事法廷では、4人の元日本軍将校が死刑の判決を受け、銃殺刑に処された。
この4人とは、300人斬りの田中軍吉大尉、100人斬りの向井敏明少尉と野田巖少尉、そして、部隊が市民の居ない場所に宿営していた谷寿夫中将の4人だが、実際には、全員が無実だった。
東京裁判を前にし、わざわざ日本から野田少尉や向井少尉などを南京に連れて行き、証拠も自白もないのに南京軍事法廷で死刑にしてしまい、残虐行為があったという既成事実をつくり上げ、それを前提に東京裁判で南京事件の審理を進めた。
このように、南京など各所の裁判所で裁かれて断罪されてしまった無実の者の長い表を東京裁判では検察側が証拠とした。
2.もう一つ検察側が証拠としたものに、10万人を超す埋葬記録があったが、これは人数を水増しした出鱈目。
勿論、戦争をしていたので死体はあったが、その数は実際には4〜5万であり、戦死、支那軍による虐殺、空爆等による事故、病死などが主な死因だった。
日本軍による虐殺が死因ではない。
3.法螺吹き証人による嘘・出鱈目証言が3つ目の証拠だった。
――――――
http://www.ne.jp/asahi/unko/tamezou/nankin/alleged/chapter2-1.html#chapter2-1-2
東京裁判に提出された「南京地方法院検察処敵人罪行調査報告[六]」によれば、第二次大戦後、日本の「戦争犯罪」を裁くため連合国が開廷した「東京裁判」に備え、中国国民政府は一九四五年十一月七日「南京敵人罪行調査委員会」を設置し、中国人に南京における日本軍の犯罪を申告するよう呼びかけた。
ところが、日本軍の残虐行為を申告する者が「甚だ少なき」ばかりか、聞き取り調査を行うと唖然として「口を噤みて語らざる者」や虐殺を「否認する者」までいたという。やむなく中国政府は暫定的な報告を一九四六年一月二十日、東京裁判に提出したが、「日本軍による大量虐殺」の証拠は埋葬記録を除けば、魯甦という人物の「目撃証言」ただ一件であった。
その後も調査を進め、ようやく「五百件の調査事実」を発掘したが、「資料を獲得する毎々一々これを審査」した結果、新規に採用できたのは僅か四件であった。ともかく…
(略)
東京裁判にも証言を提出した「魯甦」によると、日本軍は、近郊の村に包囲・拘禁していた五万七千四百十八名もの難民と兵士を十二月十六日夜、ワイヤーロープで二人ずつ括り、四列に並べて下関・草鞋峡まで追い立て、機関銃で掃射しつくした後、さらに銃剣でやたらめったら突き刺し、最後に石油をかけ、火をつけて焼き、残った人骨をことごとく揚子江の中に投げ入れた。この一部始終を、南京城内の「市街戦」に際して「砲弾」を受け「腿」に負傷し上元門大芽洞に避難した証言者が「目の前で」目撃したという。
この〈証人〉が法廷に出廷していたならば当然、次のような【反対尋問】を受けただろう。
(以下略)
――――――
しかし、ラジオ番組や東京裁判による捏造で蘇った『南京大虐殺』も、またすぐ世間から忘れ去られた。
南京大虐殺が事実だと思っていた者は殆ど居なかった。
それがまたまた蘇ったのは20年以上経過した1970年代になってからで、朝日新聞が『南京大虐殺』の大宣伝を開始した。
中でも本多勝一記者の『中国の旅』キャンペーンは朝日新聞の大宣伝が大成功を納める決定打となった。
とうとう『南京大虐殺』は歴史事実との認識(錯覚)が広まってしまい、この頃から教科書にも記載されるようになってしまった。
当時は世間から相手にされずに終わった。
ところが、8年後GHQが「南京虐殺」を東京裁判という復讐リンチ茶番劇のネタとして蘇らせた。
GHQは、「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」(戦争への罪悪感を日本人の心に植えつけるための宣伝計画)に基づき『南京大虐殺』という事件を捏造し、東京裁判や、NHKのラジオ番組『真相はかうだ』や『真相箱』などで宣伝した。
主に2つの目的が考えられ、一つは原爆投下など連合軍側の戦争犯罪を揉み消すこと、もう一つは日本人に贖罪意識を植え付けて二度と戦争が出来ない腑抜け・腰抜けにすること。
東京裁判で証拠とされたのは主に3つ。
1.南京など各所で裁かれて断罪されてしまった無実の者の長い表
2.埋葬記録
3.証言
1.東京裁判に先立って行われた南京軍事法廷では、4人の元日本軍将校が死刑の判決を受け、銃殺刑に処された。
この4人とは、300人斬りの田中軍吉大尉、100人斬りの向井敏明少尉と野田巖少尉、そして、部隊が市民の居ない場所に宿営していた谷寿夫中将の4人だが、実際には、全員が無実だった。
東京裁判を前にし、わざわざ日本から野田少尉や向井少尉などを南京に連れて行き、証拠も自白もないのに南京軍事法廷で死刑にしてしまい、残虐行為があったという既成事実をつくり上げ、それを前提に東京裁判で南京事件の審理を進めた。
このように、南京など各所の裁判所で裁かれて断罪されてしまった無実の者の長い表を東京裁判では検察側が証拠とした。
2.もう一つ検察側が証拠としたものに、10万人を超す埋葬記録があったが、これは人数を水増しした出鱈目。
勿論、戦争をしていたので死体はあったが、その数は実際には4〜5万であり、戦死、支那軍による虐殺、空爆等による事故、病死などが主な死因だった。
日本軍による虐殺が死因ではない。
3.法螺吹き証人による嘘・出鱈目証言が3つ目の証拠だった。
――――――
http://www.ne.jp/asahi/unko/tamezou/nankin/alleged/chapter2-1.html#chapter2-1-2
東京裁判に提出された「南京地方法院検察処敵人罪行調査報告[六]」によれば、第二次大戦後、日本の「戦争犯罪」を裁くため連合国が開廷した「東京裁判」に備え、中国国民政府は一九四五年十一月七日「南京敵人罪行調査委員会」を設置し、中国人に南京における日本軍の犯罪を申告するよう呼びかけた。
ところが、日本軍の残虐行為を申告する者が「甚だ少なき」ばかりか、聞き取り調査を行うと唖然として「口を噤みて語らざる者」や虐殺を「否認する者」までいたという。やむなく中国政府は暫定的な報告を一九四六年一月二十日、東京裁判に提出したが、「日本軍による大量虐殺」の証拠は埋葬記録を除けば、魯甦という人物の「目撃証言」ただ一件であった。
その後も調査を進め、ようやく「五百件の調査事実」を発掘したが、「資料を獲得する毎々一々これを審査」した結果、新規に採用できたのは僅か四件であった。ともかく…
(略)
東京裁判にも証言を提出した「魯甦」によると、日本軍は、近郊の村に包囲・拘禁していた五万七千四百十八名もの難民と兵士を十二月十六日夜、ワイヤーロープで二人ずつ括り、四列に並べて下関・草鞋峡まで追い立て、機関銃で掃射しつくした後、さらに銃剣でやたらめったら突き刺し、最後に石油をかけ、火をつけて焼き、残った人骨をことごとく揚子江の中に投げ入れた。この一部始終を、南京城内の「市街戦」に際して「砲弾」を受け「腿」に負傷し上元門大芽洞に避難した証言者が「目の前で」目撃したという。
この〈証人〉が法廷に出廷していたならば当然、次のような【反対尋問】を受けただろう。
(以下略)
――――――
しかし、ラジオ番組や東京裁判による捏造で蘇った『南京大虐殺』も、またすぐ世間から忘れ去られた。
南京大虐殺が事実だと思っていた者は殆ど居なかった。
それがまたまた蘇ったのは20年以上経過した1970年代になってからで、朝日新聞が『南京大虐殺』の大宣伝を開始した。
中でも本多勝一記者の『中国の旅』キャンペーンは朝日新聞の大宣伝が大成功を納める決定打となった。
とうとう『南京大虐殺』は歴史事実との認識(錯覚)が広まってしまい、この頃から教科書にも記載されるようになってしまった。
これは メッセージ 9929 (konoyo_anoyo さん)への返信です.