YellowFluteさんへ資料を提供
投稿者: omegatribes 投稿日時: 2002/08/23 18:29 投稿番号: [924 / 41162]
資料を提供します。まずは中国空軍のお粗末さについての資料です。
メインストリートの南京路に亀裂が走り、路上に見るも無残な死体が散乱していた。死者50名あまり、負傷者1150名あまり、「王女」に魅入られた男シェーンノートの初仕事は、惨劇に終わった。
中国空軍の惨憺たる状況はこれだけにとどまらなかった。ある夜、夜間爆撃から季刊した航空隊を出迎えたシェーンノートと美齢は、恐るべき光景を目にした。
「一番機は滑走路を駆け抜けて水田に飛び込み、機体は四散した。二番機は地上で宙返りし、爆発炎上した。四番機は、炎上している二番機の消化に急行していた消防車に激突した。11機のうち5期が着陸に失敗し、4人のパイロットが死んだ」
「蒋介石夫人はワッと泣き出した『どうしましょう、どうしましょう』とすすり泣いた。『私達は大枚のお金をはたいて最もいい飛行機を買って、たくさんのお金と時間をかけて訓練したのに、私の目の前で死んでいくなんて、どうしたらいいの?』
10月、シェンノートはこう断言した。
「この中国空軍にほとほと万策が尽きた。そのパイロットたるや、ぎこちない動きで次々出てくる。射的場のアヒルだ」(「宋姉妹」)
そして日本軍が第一次上海事変での無差別爆撃の資料。
1932年1月29日、能登呂の水上偵察機は北停車場を爆撃、馬路大通りを機銃掃射した。この空襲によって商務印書館および付設の東方図書館が破壊され、中国古代からの貴重な文書多数を焼失した。
2月にはいると、上海沖30キロの海上に陣取った空母2隻の艦載機も地上軍の作戦に策応して、市街地無差別爆撃に加わってきた。両艦塔載の艦上攻撃機、艦上戦闘機の数は41機と26機であった。(前田哲夫「戦略爆撃の思想」)
スノーの「極東戦線」(1934年)にはその模様が書いている。「(中略)空襲は1時間半近くつづき、水上機はそれぞれ4,5発の爆弾を落とすと、また新しく積み込むために基地へ帰っていった。高性能の空中魚雷とともに、50ないし100ポンドの硫黄をつめた焼夷弾が投下され、中国市民が密集して住んでいる地区を爆撃した。この空襲は何の予告もなく、住民は避難する間もなかったので、何十人かが粉々に吹き飛ばされ、あるいはたちまち燃え広がる炎の中で焼き殺された」(前掲書)
日本軍は中国軍の上海租界「無差別」爆撃以前に、天津を爆撃していますよ。
引用開始
1937年7月28日、日本軍は天津を爆撃しました。日本軍による本格的な都市爆撃の始まりである。日本の爆撃は、市外数キロの場所にある基地から4時間にわたってリレー式で行われた。天津には有名な南開大学があったが、日本の爆撃はそこに集中した。(荒井信一「ミニ世界史」社会思想社)
メインストリートの南京路に亀裂が走り、路上に見るも無残な死体が散乱していた。死者50名あまり、負傷者1150名あまり、「王女」に魅入られた男シェーンノートの初仕事は、惨劇に終わった。
中国空軍の惨憺たる状況はこれだけにとどまらなかった。ある夜、夜間爆撃から季刊した航空隊を出迎えたシェーンノートと美齢は、恐るべき光景を目にした。
「一番機は滑走路を駆け抜けて水田に飛び込み、機体は四散した。二番機は地上で宙返りし、爆発炎上した。四番機は、炎上している二番機の消化に急行していた消防車に激突した。11機のうち5期が着陸に失敗し、4人のパイロットが死んだ」
「蒋介石夫人はワッと泣き出した『どうしましょう、どうしましょう』とすすり泣いた。『私達は大枚のお金をはたいて最もいい飛行機を買って、たくさんのお金と時間をかけて訓練したのに、私の目の前で死んでいくなんて、どうしたらいいの?』
10月、シェンノートはこう断言した。
「この中国空軍にほとほと万策が尽きた。そのパイロットたるや、ぎこちない動きで次々出てくる。射的場のアヒルだ」(「宋姉妹」)
そして日本軍が第一次上海事変での無差別爆撃の資料。
1932年1月29日、能登呂の水上偵察機は北停車場を爆撃、馬路大通りを機銃掃射した。この空襲によって商務印書館および付設の東方図書館が破壊され、中国古代からの貴重な文書多数を焼失した。
2月にはいると、上海沖30キロの海上に陣取った空母2隻の艦載機も地上軍の作戦に策応して、市街地無差別爆撃に加わってきた。両艦塔載の艦上攻撃機、艦上戦闘機の数は41機と26機であった。(前田哲夫「戦略爆撃の思想」)
スノーの「極東戦線」(1934年)にはその模様が書いている。「(中略)空襲は1時間半近くつづき、水上機はそれぞれ4,5発の爆弾を落とすと、また新しく積み込むために基地へ帰っていった。高性能の空中魚雷とともに、50ないし100ポンドの硫黄をつめた焼夷弾が投下され、中国市民が密集して住んでいる地区を爆撃した。この空襲は何の予告もなく、住民は避難する間もなかったので、何十人かが粉々に吹き飛ばされ、あるいはたちまち燃え広がる炎の中で焼き殺された」(前掲書)
日本軍は中国軍の上海租界「無差別」爆撃以前に、天津を爆撃していますよ。
引用開始
1937年7月28日、日本軍は天津を爆撃しました。日本軍による本格的な都市爆撃の始まりである。日本の爆撃は、市外数キロの場所にある基地から4時間にわたってリレー式で行われた。天津には有名な南開大学があったが、日本の爆撃はそこに集中した。(荒井信一「ミニ世界史」社会思想社)
これは メッセージ 890 (YellowFlute さん)への返信です.