米国が日本を虐め続けた20世紀前半
投稿者: deliciousicecoffee 投稿日時: 2006/03/26 23:12 投稿番号: [9230 / 41162]
#5197で、20世紀前半の米国の新聞が如何に滅茶苦茶な反日報道をしていたかを紹介しましたが、信じない人がいます。
また、「日本は、米国の言う事を聞いて仲良くするべきだった。」と後知恵で物事を言う人も多いが、当時の米国がどんなことをしていた国なのかを知った上で言っているのか疑問です。
――――――――
1898年、日本の抗議にもかかわらず、米国が謀略によってハワイ王国を併合
1898年、米西戦争、米国がフィリピンとキューバを狙ってスペインと戦争
1899年〜1903年、アメリカ・フィリピン戦争。米国がスペインから独立させたフィリピンを植民地に。
1902年、キューバがスペインから独立
1903年、パナマがコロンビアから独立。米国は独立運動に介入しパナマと運河条約を締結。米国は運河地帯の永久租借権を獲得しパナマを実質的植民地に。
1905年、日露戦争終了。ポーツマス条約締結、南満州の鉄道譲渡など。
1909年、米国は、満鉄の国際管理を提案し満鉄の権益への介入を試みるが、日本の立場を認めた列国の反対で失敗。
1914年、パナマ運河開通
1914年〜1918年、第1次世界大戦
1919年、日本は国際連盟規約宣言の中に人種平等の原則を挿入することを提案し、17票中11票の賛成を得たが、委員長ウィルソン大統領は、「斯かる決議には全員一致を要する」との理由で拒絶。
1922年、アメリカ最高裁が「黄色人種(日本人)の帰化権はない」と判決。すでに帰化した日本人の権利まで剥奪できるとした。
1923年、米国によって日英同盟が解消される
1924年、「絶対的排日移民法」が成立。米国は、ヨーロッパからは毎年何十万人もの移民を入れていた時、日本人移民を一人も入れない法律を作った。
――――――――
その後も満州などをめぐって日米は対立。
日本は、ただ生きる残るためだけに満州に活路を見出したのに対し、米国は…
――――――――
日本は小さい島国だ。農地にも原材料にも恵まれていない。近代に入ってから80年足らずで、日本の人口は2倍以上に膨張した。1853年、食糧生産従事者は人口の80%だったが、1931年には52%を下回った。列島は火山性地質のために、耕地面積が狭く、如何に農耕と保存の才に優れた日本人でも、食糧の自給体制をとることができないのだ。
ヨーロッパ諸国とアメリカはアジア地域からの(他の地域からも)移民を法律で規制していたから、日本人移民は欧米諸国の本土はもとより、アジア、太平洋地域の多くの場所から締め出されていた。彼らには中国と満州しか出て行くところがなかったが、中国は既に人口過剰で、先着の西洋列強は、日本の攻撃的競争力を怒るのだ。
しかし、満州なら困難ながら道が開けそうだ。
(略)
日本は全く違った。近代国家になる過程で日本は、国家の自給自足体制を決定的に失ってしまった。ゴムのような二、三の例外は除けば、米国の輸入品の全ては贅沢品か、戦争必需品に限られていた。しかし、日本は食糧だけでなく、生活していくのに必要なものは事実上全て輸入しなければならなかった。英国同様、日本は輸出しなければ、多くの人が食べていけなかった。輸出向き資源は、生糸と僅かなものを除き、殆ど持っていなかったから、原料を輸入し加工して輸出しなければならなかった。食糧だけでなく、加工製品の原料を輸入するためには、そうするほかなかったのだ。
農業人口を支えるだけの土地が無かったから、輸出に間接、直接に依存して生きなければならない層が増加していった。農民でさえ、2百万人が直接貿易に依存していた。何故なら彼らの「現金収入作物」は蚕の繭だったからだ。彼らにとって現金収入が必要だったのは、自動車や洗濯機、或はトラクターを買うためではない。税金を払い、家賃を払い、米、或はサツマイモなど僅かな食糧を確保するのに必要だったのだ。
(略)
日本が抱えていたのは、過剰な人口、日本人移民を入れない世界の障壁、対外貿易への過度の依存、国民に雇用と食糧を保障するための物資購入、そのために必要な輸出の拡大、という生死にかかわる問題だった。
『アメリカの鏡・日本』ヘレン・ミアーズ著
――――――――
その後、支那事変で、米英による露骨で大規模な「対日経済制裁」と「蒋介石支援」が実施されました。
いったい、いつ、日本が米国と仲良く出来たというのでしょうか?
日本は、米国との武力衝突を避けるのが精一杯であり「仲良し」になるチャンスなどなく、よく1941年まで日米戦争を回避し続けたものです。
また、「日本は、米国の言う事を聞いて仲良くするべきだった。」と後知恵で物事を言う人も多いが、当時の米国がどんなことをしていた国なのかを知った上で言っているのか疑問です。
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1898年、日本の抗議にもかかわらず、米国が謀略によってハワイ王国を併合
1898年、米西戦争、米国がフィリピンとキューバを狙ってスペインと戦争
1899年〜1903年、アメリカ・フィリピン戦争。米国がスペインから独立させたフィリピンを植民地に。
1902年、キューバがスペインから独立
1903年、パナマがコロンビアから独立。米国は独立運動に介入しパナマと運河条約を締結。米国は運河地帯の永久租借権を獲得しパナマを実質的植民地に。
1905年、日露戦争終了。ポーツマス条約締結、南満州の鉄道譲渡など。
1909年、米国は、満鉄の国際管理を提案し満鉄の権益への介入を試みるが、日本の立場を認めた列国の反対で失敗。
1914年、パナマ運河開通
1914年〜1918年、第1次世界大戦
1919年、日本は国際連盟規約宣言の中に人種平等の原則を挿入することを提案し、17票中11票の賛成を得たが、委員長ウィルソン大統領は、「斯かる決議には全員一致を要する」との理由で拒絶。
1922年、アメリカ最高裁が「黄色人種(日本人)の帰化権はない」と判決。すでに帰化した日本人の権利まで剥奪できるとした。
1923年、米国によって日英同盟が解消される
1924年、「絶対的排日移民法」が成立。米国は、ヨーロッパからは毎年何十万人もの移民を入れていた時、日本人移民を一人も入れない法律を作った。
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その後も満州などをめぐって日米は対立。
日本は、ただ生きる残るためだけに満州に活路を見出したのに対し、米国は…
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日本は小さい島国だ。農地にも原材料にも恵まれていない。近代に入ってから80年足らずで、日本の人口は2倍以上に膨張した。1853年、食糧生産従事者は人口の80%だったが、1931年には52%を下回った。列島は火山性地質のために、耕地面積が狭く、如何に農耕と保存の才に優れた日本人でも、食糧の自給体制をとることができないのだ。
ヨーロッパ諸国とアメリカはアジア地域からの(他の地域からも)移民を法律で規制していたから、日本人移民は欧米諸国の本土はもとより、アジア、太平洋地域の多くの場所から締め出されていた。彼らには中国と満州しか出て行くところがなかったが、中国は既に人口過剰で、先着の西洋列強は、日本の攻撃的競争力を怒るのだ。
しかし、満州なら困難ながら道が開けそうだ。
(略)
日本は全く違った。近代国家になる過程で日本は、国家の自給自足体制を決定的に失ってしまった。ゴムのような二、三の例外は除けば、米国の輸入品の全ては贅沢品か、戦争必需品に限られていた。しかし、日本は食糧だけでなく、生活していくのに必要なものは事実上全て輸入しなければならなかった。英国同様、日本は輸出しなければ、多くの人が食べていけなかった。輸出向き資源は、生糸と僅かなものを除き、殆ど持っていなかったから、原料を輸入し加工して輸出しなければならなかった。食糧だけでなく、加工製品の原料を輸入するためには、そうするほかなかったのだ。
農業人口を支えるだけの土地が無かったから、輸出に間接、直接に依存して生きなければならない層が増加していった。農民でさえ、2百万人が直接貿易に依存していた。何故なら彼らの「現金収入作物」は蚕の繭だったからだ。彼らにとって現金収入が必要だったのは、自動車や洗濯機、或はトラクターを買うためではない。税金を払い、家賃を払い、米、或はサツマイモなど僅かな食糧を確保するのに必要だったのだ。
(略)
日本が抱えていたのは、過剰な人口、日本人移民を入れない世界の障壁、対外貿易への過度の依存、国民に雇用と食糧を保障するための物資購入、そのために必要な輸出の拡大、という生死にかかわる問題だった。
『アメリカの鏡・日本』ヘレン・ミアーズ著
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その後、支那事変で、米英による露骨で大規模な「対日経済制裁」と「蒋介石支援」が実施されました。
いったい、いつ、日本が米国と仲良く出来たというのでしょうか?
日本は、米国との武力衝突を避けるのが精一杯であり「仲良し」になるチャンスなどなく、よく1941年まで日米戦争を回避し続けたものです。