Re: 南京事件の国際的認識
投稿者: ja2047 投稿日時: 2006/01/09 14:14 投稿番号: [8194 / 41162]
>ただ日本の開国は1858年でこの時点では遅れてたのですよね。
うん、遅れてはいたのでしょうけど、私はたいした遅れではなかったと思うのです。
黒船のショックでいきなり日本で蒸気船を造ろうとしたものが複数いて、徳川時代の
うちに、それなりの試作品は造ってしまった、その一つなんて四国宇和島藩だったの
ですから。
少なくとも他国を見て自分の遅れを意識し、すぐさまそれを埋める動きが出来る
水準にはあったのです。
捕虜の扱いにしても、幕末の五稜郭の戦いなんかでは、もうそういうことが問題に
なってて、榎本武楊が命を助けられ、土方歳三が助からなかったのは捕虜の扱いの
姿勢の差だったとも言います。
日清、日露戦争、第一次大戦と日本軍の捕虜の扱いがきちんとしていること、軍紀の
厳正なことは国際的に定評があったのですけど、それが捕虜虐殺をしたということで、
欧米諸国にはちょっとしたショックだったのでしょう。
日本の軍人や政府関係者もかなりショックを受けたようです。
松井石根大将
「南京事件ではお恥ずかしい限りです。…私は日露戦争の時大尉として従軍したが、その当時の師団長と今度の師団長などと比べてみると問題にならん程悪い。
日露戦争のときはシナ人に対しては勿論、ロシア人に対しても俘虜の取り扱い、その他よくいっていた。…武士道とか、人道とかいう点では当時とは全く変っておった。」
[「巣鴨の生と死」 花岡信勝]
岡村寧次大将
「第四編 武漢攻略前後」より
三 戦場軍、風紀今昔の感と私の覚悟
私は、従来書物によって日清戦争、北清事変、日露戦争当時における我軍将兵の軍、風紀森厳で神兵であったことを知らされ、日露戦争の末期には自ら小隊長として樺太の戦線に加わり、大尉のときには青島戦に従軍し、関東軍参謀副長および第二師団長として満州に出動したが、至るところ戦場における軍、風紀は昔時と大差なく良好であったことを憶えている。
それなのにこのたび東京で、南京攻略戦では大暴行が行われたとの噂を聞き、それら前科のある部隊を率いて武漢攻略に任ずるのであるから大に軍、風紀の維持に努力しなければいけないと覚悟し、差し当り「討蒋愛民」の訓示標語を掲げることにした、それはわれらの目的は蒋介石の軍を倒滅することであって無辜の人民には仁愛を以て接すべしというに在った。
上海に上陸して、一、二日の間に、このことに関して先遣の宮崎周一参謀、中支派遣軍特務部長原田少将、杭州特務機関長萩原中佐等から聴取したところを総合すれば次のとおりであった。
一 南京攻略時、数万の市民に対する掠奪強姦等の大暴行があったことは事実である。
一 第一線部隊は給養困難を名として俘虜を殺してしまう弊がある。」
(「岡村寧次大将資料」(上) P290〜P291)
徳川義寛
「昭和十二年の南京占領の時、日本軍がひどいことをしたということは、私は当時から知っていました。
中国人捕虜を数珠つなぎにして撃ち殺すとか・・・。私の大学の友人で軍医だったのが、朝香宮さまのお供で現地へ行って見聞した話を、私は聞いていたからです。
南京虐殺があったとか無かったとか論争があるようですが、当時も関係者の多くは事実を知っていたんです。
陛下が知っておられたかどうかはわかりませんが、折に触れて「日露戦争の時の軍と違う」ということはおっしゃっていました。
明治天皇のご事蹟をよく知っておられましたから。」
(「侍従長の遺言」 P38〜P39)
うん、遅れてはいたのでしょうけど、私はたいした遅れではなかったと思うのです。
黒船のショックでいきなり日本で蒸気船を造ろうとしたものが複数いて、徳川時代の
うちに、それなりの試作品は造ってしまった、その一つなんて四国宇和島藩だったの
ですから。
少なくとも他国を見て自分の遅れを意識し、すぐさまそれを埋める動きが出来る
水準にはあったのです。
捕虜の扱いにしても、幕末の五稜郭の戦いなんかでは、もうそういうことが問題に
なってて、榎本武楊が命を助けられ、土方歳三が助からなかったのは捕虜の扱いの
姿勢の差だったとも言います。
日清、日露戦争、第一次大戦と日本軍の捕虜の扱いがきちんとしていること、軍紀の
厳正なことは国際的に定評があったのですけど、それが捕虜虐殺をしたということで、
欧米諸国にはちょっとしたショックだったのでしょう。
日本の軍人や政府関係者もかなりショックを受けたようです。
松井石根大将
「南京事件ではお恥ずかしい限りです。…私は日露戦争の時大尉として従軍したが、その当時の師団長と今度の師団長などと比べてみると問題にならん程悪い。
日露戦争のときはシナ人に対しては勿論、ロシア人に対しても俘虜の取り扱い、その他よくいっていた。…武士道とか、人道とかいう点では当時とは全く変っておった。」
[「巣鴨の生と死」 花岡信勝]
岡村寧次大将
「第四編 武漢攻略前後」より
三 戦場軍、風紀今昔の感と私の覚悟
私は、従来書物によって日清戦争、北清事変、日露戦争当時における我軍将兵の軍、風紀森厳で神兵であったことを知らされ、日露戦争の末期には自ら小隊長として樺太の戦線に加わり、大尉のときには青島戦に従軍し、関東軍参謀副長および第二師団長として満州に出動したが、至るところ戦場における軍、風紀は昔時と大差なく良好であったことを憶えている。
それなのにこのたび東京で、南京攻略戦では大暴行が行われたとの噂を聞き、それら前科のある部隊を率いて武漢攻略に任ずるのであるから大に軍、風紀の維持に努力しなければいけないと覚悟し、差し当り「討蒋愛民」の訓示標語を掲げることにした、それはわれらの目的は蒋介石の軍を倒滅することであって無辜の人民には仁愛を以て接すべしというに在った。
上海に上陸して、一、二日の間に、このことに関して先遣の宮崎周一参謀、中支派遣軍特務部長原田少将、杭州特務機関長萩原中佐等から聴取したところを総合すれば次のとおりであった。
一 南京攻略時、数万の市民に対する掠奪強姦等の大暴行があったことは事実である。
一 第一線部隊は給養困難を名として俘虜を殺してしまう弊がある。」
(「岡村寧次大将資料」(上) P290〜P291)
徳川義寛
「昭和十二年の南京占領の時、日本軍がひどいことをしたということは、私は当時から知っていました。
中国人捕虜を数珠つなぎにして撃ち殺すとか・・・。私の大学の友人で軍医だったのが、朝香宮さまのお供で現地へ行って見聞した話を、私は聞いていたからです。
南京虐殺があったとか無かったとか論争があるようですが、当時も関係者の多くは事実を知っていたんです。
陛下が知っておられたかどうかはわかりませんが、折に触れて「日露戦争の時の軍と違う」ということはおっしゃっていました。
明治天皇のご事蹟をよく知っておられましたから。」
(「侍従長の遺言」 P38〜P39)
これは メッセージ 8189 (shingan_magan さん)への返信です.