ラオスの独立?ラオスの教科書より、、
投稿者: yominokuni56 投稿日時: 2005/09/17 09:02 投稿番号: [7449 / 41162]
ラオス=401アジアの教科書
「カンプチアの歴史」(クメール語)
1939年9月第二次世界大戦が勃発した。
フランスの反動資本家はドイツのファシストに対して1940年の敗北を受け入れペタン元帥を擁立して権力の座につけた。
このような状況のもとでドイツと同盟したファシスト日本はフランスを放逐し、インドシナ半島を日本の支配下におこうとして、直ちにインドシナに侵攻した。
初めのうちはインドシナ人民の民族解放運動をつぶす為にフランスと日本は友好的関係にあるかのように見せかけていた。
1940年8月には日本から強制があったわけでもないのに、インドシナにおける日本の軍事上経済上の権益を認める条約に署名した(松岡・アンリ協定)
1940年9月には日本軍はランソン地域に侵入し,支配した(北部仏印進駐)
フランス植民地軍は撤退し日本にインドシナ北部を譲渡する条約を結ばなければならなかった。(日・仏印軍事細目協定)
1941年9月インドシナ総督ドゥクーは新たに日本との間に「インドシナ地域共同保護条約」という降伏条約を結びカンプチアを含むインドシナ全土に日本軍が駐留することを承認した。
残酷な戦略は人民から食料品、なかでも米を全くの安値で強制的に買い上げたことであった。これは日本軍に供給するとともに戦時ストックにする為であった。
この政策のせいで飢餓状態が生じ1945年初めにはインドシナ人民が餓死しなければならなかった。(ベトナム人民共和国は餓死者は200万人と報告)
経済面での残酷な搾取と平行してフランス植民地主義者は王族間に内紛を生じさせようと政策をとった。シーソワッテムニーポン王の死去(1941年10月)のあと
フランスはシアヌークを即位させ、本当の王位はシソワッテムニーオン王の長男であるシーソワッテムニーレートが継ぐべきであった。
カンプチア住民の沸き起こる愛国心(日本がフランスと戦うために煽った)に対してフランスは自己の指導方針で別の方向へ受けようとしていた。
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これは メッセージ 7448 (yominokuni56 さん)への返信です.
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