黄泉の国宛 嘘垂れ流しを認めるのか?
投稿者: deliciousicecoffee 投稿日時: 2005/05/25 23:20 投稿番号: [5787 / 41162]
>廬溝橋事件を切っ掛けとして陸軍は作戦計画も動員準備も不足のまま、場当たり的に全面戦争へと突入していった。
「作戦計画も動員準備もなかった」ことこそ、日本の侵略ではなかった何よりの証拠だろ。
そして、最初は北支で戦闘していたのに、いきなり支那が大軍をもって、上海の国際租界を包囲攻撃し、故意に市街地を爆撃し始めたら、戦争が拡大していくのは当たり前だろ。
日本の場合、戦争の目的は、あくまでも上海の邦人救出だった。
だから、軍の名称も上海派遣軍だったし、派遣した軍隊もたったの2個師団で、軍編成も臨時のものだった。
>陸軍中央内部に「不拡大派」と「拡大派」の対立があり、やがて、「拡大派」が作戦の主導権を握るようになったのである。
>不拡大派の中心人物は"石原完爾(参謀本部第1(作戦)部長)少将であり、
>拡大派の先鋒は"武藤章(同部作戦課長)大佐である。(A旧戦犯絞首刑)
8月12日、日本は、上海の国際租界の日本人居留区を支那の大軍によって包囲攻撃されたが、石原莞爾少将は、上海戦に反対し、たったの2個師団しか出さず、それが少なすぎたために後から追加の軍を出さざるを得なくなり、辞職に追い込まれた。
しかし、その後も日本の不拡大方針は終始継続された。
2年後(1939年)に起きたノモンハン事件においても、日本はソ連軍に圧勝できたにもかかわらず不拡大方針を貫いたために現地(ノモンハン)の日本軍は極端な「多勢に無勢」となり、ソ連軍に苦戦したほどだ。
>廬溝橋事件の一報が7月8日に届いた時、石原完爾は「事件不拡大、現地解決」の方針を各部長を説いて同意を取り付けて、病臥中の今井参謀次長にかわって閑院宮参謀総長の決裁を受けて、「参謀本部の不拡大方針を決定」した。
支那事変(日中戦争)が、日本の侵略ではないことがよく分かるよね。
>不拡大派は拡大派に押し切られ、廬溝橋事件の[現地停戦協定]が成立したにも関わらず、
>参謀本部は内地3個師団の華北派遣と支那駐屯軍の武力行使を指示、命令し、「北支事変」は 一挙に華北に拡大してしまったのである。
不測の事態に備えて、「方針」を「不拡大」のままにして、念のために内地の軍を派遣しておいても何もおかしなことではない。
石原莞爾も、その理由で派遣に合意した。
平気で約束を破る支那に大軍で攻撃されてからでは間に合わないからだ。
現実に、南京政府は、7月9日に4個師団と戦闘機を北支に派遣する動員令を出していた。
●1937年
7月7日、盧溝橋事件。演習中の日本軍が銃撃される。事件の僅か数時間後に、支那共産党は中央委員会をもって「・・・われらは進攻する日本軍に対して断固攻撃を加えるとともに、新たな大事変に即応する準備を急ぐよう要求する。・・・武装して北平(北京)、天津、華北を防衛しよう・・・」という通電を全国に発している。
7月9日、停戦協定が成立。蒋介石は4個師団と戦闘機を北支に派遣。
7月10日、200人以上の支那兵が迫撃砲で攻撃再開
7月11日、停戦協定が成立。日本政府、華北への派兵を声明。
7月13日、支那兵が移動中の日本軍トラック2台に手榴弾を投げ込み全員を爆殺
7月14日、支那兵が日本の騎馬兵を惨殺
7月16日、事件を収集させようとする宋哲元に対し、蒋介石は「日本の策謀に乗じるな、戦備を整えよ」と打電
7月17日、蒋介石がラジオで『生死関頭』演説を行い戦争の決意を表明
7月25日、郎坊事件、日本軍が攻撃を受ける。
7月26日、広安門事件、日本軍が攻撃を受ける。
7月28日、日本軍が華北への攻撃を開始。
7月29日、通州事件。日本人居留民約260名が虐殺される。
8月9日、和平会談の予定だったが、海軍陸戦隊の大山中尉が惨殺される。
8月13日、蒋介石軍が包囲した上海の国際租界の日本人居留区を攻撃開始
8月14日、支那軍が上海市街のホテルなどを爆撃。これを日本軍の仕業と世界中に宣伝。
8月23日、支那軍が上海のデパートを爆撃。これも日本軍の仕業と世界中に宣伝。
で、#5756や#5775や#5783 で俺が述べた質問や反論に対して、まったく応答がないのだが、
1.「夜間空襲のもう一つの恐怖は 日本軍爆撃機が「毒ガス」を散布することである。(ウイルソン文書)」は嘘っぱちのでっち上げだったことを認めるんだな?#5756
2.支那軍がわざと市街地を狙って爆撃し、日本軍の仕業に転嫁して逆宣伝したことを認めるんだな?#4553、#5397、#5775
3.11月にブリュッセルで開かれた9カ国会議で、「日本の支那侵略に対して警告を発した」は嘘っぱちのでっち上げだったことを認めるんだな?#5783
「作戦計画も動員準備もなかった」ことこそ、日本の侵略ではなかった何よりの証拠だろ。
そして、最初は北支で戦闘していたのに、いきなり支那が大軍をもって、上海の国際租界を包囲攻撃し、故意に市街地を爆撃し始めたら、戦争が拡大していくのは当たり前だろ。
日本の場合、戦争の目的は、あくまでも上海の邦人救出だった。
だから、軍の名称も上海派遣軍だったし、派遣した軍隊もたったの2個師団で、軍編成も臨時のものだった。
>陸軍中央内部に「不拡大派」と「拡大派」の対立があり、やがて、「拡大派」が作戦の主導権を握るようになったのである。
>不拡大派の中心人物は"石原完爾(参謀本部第1(作戦)部長)少将であり、
>拡大派の先鋒は"武藤章(同部作戦課長)大佐である。(A旧戦犯絞首刑)
8月12日、日本は、上海の国際租界の日本人居留区を支那の大軍によって包囲攻撃されたが、石原莞爾少将は、上海戦に反対し、たったの2個師団しか出さず、それが少なすぎたために後から追加の軍を出さざるを得なくなり、辞職に追い込まれた。
しかし、その後も日本の不拡大方針は終始継続された。
2年後(1939年)に起きたノモンハン事件においても、日本はソ連軍に圧勝できたにもかかわらず不拡大方針を貫いたために現地(ノモンハン)の日本軍は極端な「多勢に無勢」となり、ソ連軍に苦戦したほどだ。
>廬溝橋事件の一報が7月8日に届いた時、石原完爾は「事件不拡大、現地解決」の方針を各部長を説いて同意を取り付けて、病臥中の今井参謀次長にかわって閑院宮参謀総長の決裁を受けて、「参謀本部の不拡大方針を決定」した。
支那事変(日中戦争)が、日本の侵略ではないことがよく分かるよね。
>不拡大派は拡大派に押し切られ、廬溝橋事件の[現地停戦協定]が成立したにも関わらず、
>参謀本部は内地3個師団の華北派遣と支那駐屯軍の武力行使を指示、命令し、「北支事変」は 一挙に華北に拡大してしまったのである。
不測の事態に備えて、「方針」を「不拡大」のままにして、念のために内地の軍を派遣しておいても何もおかしなことではない。
石原莞爾も、その理由で派遣に合意した。
平気で約束を破る支那に大軍で攻撃されてからでは間に合わないからだ。
現実に、南京政府は、7月9日に4個師団と戦闘機を北支に派遣する動員令を出していた。
●1937年
7月7日、盧溝橋事件。演習中の日本軍が銃撃される。事件の僅か数時間後に、支那共産党は中央委員会をもって「・・・われらは進攻する日本軍に対して断固攻撃を加えるとともに、新たな大事変に即応する準備を急ぐよう要求する。・・・武装して北平(北京)、天津、華北を防衛しよう・・・」という通電を全国に発している。
7月9日、停戦協定が成立。蒋介石は4個師団と戦闘機を北支に派遣。
7月10日、200人以上の支那兵が迫撃砲で攻撃再開
7月11日、停戦協定が成立。日本政府、華北への派兵を声明。
7月13日、支那兵が移動中の日本軍トラック2台に手榴弾を投げ込み全員を爆殺
7月14日、支那兵が日本の騎馬兵を惨殺
7月16日、事件を収集させようとする宋哲元に対し、蒋介石は「日本の策謀に乗じるな、戦備を整えよ」と打電
7月17日、蒋介石がラジオで『生死関頭』演説を行い戦争の決意を表明
7月25日、郎坊事件、日本軍が攻撃を受ける。
7月26日、広安門事件、日本軍が攻撃を受ける。
7月28日、日本軍が華北への攻撃を開始。
7月29日、通州事件。日本人居留民約260名が虐殺される。
8月9日、和平会談の予定だったが、海軍陸戦隊の大山中尉が惨殺される。
8月13日、蒋介石軍が包囲した上海の国際租界の日本人居留区を攻撃開始
8月14日、支那軍が上海市街のホテルなどを爆撃。これを日本軍の仕業と世界中に宣伝。
8月23日、支那軍が上海のデパートを爆撃。これも日本軍の仕業と世界中に宣伝。
で、#5756や#5775や#5783 で俺が述べた質問や反論に対して、まったく応答がないのだが、
1.「夜間空襲のもう一つの恐怖は 日本軍爆撃機が「毒ガス」を散布することである。(ウイルソン文書)」は嘘っぱちのでっち上げだったことを認めるんだな?#5756
2.支那軍がわざと市街地を狙って爆撃し、日本軍の仕業に転嫁して逆宣伝したことを認めるんだな?#4553、#5397、#5775
3.11月にブリュッセルで開かれた9カ国会議で、「日本の支那侵略に対して警告を発した」は嘘っぱちのでっち上げだったことを認めるんだな?#5783
これは メッセージ 5784 (yominokuni56 さん)への返信です.