南京虐殺は嘘36 支那軍による虐殺6
投稿者: deliciousicecoffee 投稿日時: 2005/05/12 00:41 投稿番号: [5539 / 41162]
●支那軍による黄河堤防決壊で罹災民約60万人、行方不明(死者)約12万人
【悪逆、暴虐、その極に達す】
『抗日戦回想録』郭沫若自伝より抜粋
―――――――――――――――――――
敵の最初の計画は、伝えられるところでは、大きく迂回した包囲戦略をとり、隴海線に沿って西進し、さらに平漢線南半を奪って大武漢の背をつこうというものだったという。しかしこの戦略は、6月11日の黄河堤防の決壊で、河南省東部が沼沢地帯になったため、水の泡と化した。
あの時、黄河の堤防は開封の西北の五荘、京水鎮、許家堤等で同時に決壊した。わが方の対外宣伝では敵の無差別爆撃による、といっていたが、実はわが軍の前線の将軍が命令によって掘りくずしたのだった。わが伝統兵法――「水、六軍を淹(ひた)す」だった。しかし敵が水浸しになった程度はたかの知れたもので、むしろわが方の民間の生命財産が想像もつかぬ犠牲をこうむった。敵の迂回戦略は挫折したが、逆に正面攻撃戦術をとり、五方面の大軍で長江下流から水陸を並進し、直接武漢を攻撃した。かくてしばしの安逸を貪っていた当局も「大武漢を守れ」の呼びかけを出さざるを得なかった。
私たちが活躍すべき機会到来であった。
―――――――――――――――――――
1938年年6月、開封の街が日本軍に占領されると、支那軍は日本軍の追撃を断ち、日本軍を水攻めにするため、黄河の堤防を破壊した。
その水没流域は、最大幅約28キロ、長さ南北約120キロにも達した。
この洪水による被害は、「水没部落約3500、罹災民約60万人、行方不明約12万人」におよんだ。
そして、この時、濁流に飲まれる支那住民を救ったのは日本軍だった。
6月23日の同盟ニュースは、濁流渦巻く水禍の中、ボートで救助作業をしている日本兵の姿を写している。
また、國史図書刊行会編『支那事変』もその時の写真が掲載されている。
しかし、支那は、この犯行を「日本軍がやった」と嘘の報道をした。
16日付け東京朝日新聞夕刊
【上海特電十五日発】〈上海軍当局談〉 「支那側は目下しきりに黄河堤防決壊は日本軍の所為なりと宣伝に努めつつあるが、決壊地点と称される京水鎮には、まだ、日本軍は進出しておらず・・・」
このように、支那軍は自ら堤防を破壊しながら、それを日本軍がしたと逆宣伝していたわけで、上海のホテルやデパートへの狙い撃ち爆撃などと同じく、毎度お馴染みの卑劣極まりないやり方だった。
支那軍は、この後、揚子江の堤防をも決壊させた。
6月26日同盟ニュース
『悪逆、暴虐、その極に達す 敵、揚子江堤防を決壊』
「悪逆の限り、黄河決壊の暴挙を敢えてなし、無辜の民幾十万かを絶望の淵にたたき込んだ蒋介石は、なんたる無謀か、皇軍を怖るあまり、又しても進撃を阻まんとして、太湖南方揚子江両岸の馬華堤を破壊し、付近一帯の住民は濁流渦巻く大水害に見舞われんとし、怨嗟憤怒は地に満ちている」
さらに、支那軍は、9月23日にも武穴鎮の下流で揚子江を決壊させた。
支那軍は、自分たちが安全に逃げる、ただそれだけのために、 おびただしい数の支那人民の生命と財産を犠牲にした。
そして、お人好しの日本軍に支那住民を救助させた。
しかし、助けられて日本人と仲良くなった者は、戦後、漢奸として裁かれたのだった。
【悪逆、暴虐、その極に達す】
『抗日戦回想録』郭沫若自伝より抜粋
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敵の最初の計画は、伝えられるところでは、大きく迂回した包囲戦略をとり、隴海線に沿って西進し、さらに平漢線南半を奪って大武漢の背をつこうというものだったという。しかしこの戦略は、6月11日の黄河堤防の決壊で、河南省東部が沼沢地帯になったため、水の泡と化した。
あの時、黄河の堤防は開封の西北の五荘、京水鎮、許家堤等で同時に決壊した。わが方の対外宣伝では敵の無差別爆撃による、といっていたが、実はわが軍の前線の将軍が命令によって掘りくずしたのだった。わが伝統兵法――「水、六軍を淹(ひた)す」だった。しかし敵が水浸しになった程度はたかの知れたもので、むしろわが方の民間の生命財産が想像もつかぬ犠牲をこうむった。敵の迂回戦略は挫折したが、逆に正面攻撃戦術をとり、五方面の大軍で長江下流から水陸を並進し、直接武漢を攻撃した。かくてしばしの安逸を貪っていた当局も「大武漢を守れ」の呼びかけを出さざるを得なかった。
私たちが活躍すべき機会到来であった。
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1938年年6月、開封の街が日本軍に占領されると、支那軍は日本軍の追撃を断ち、日本軍を水攻めにするため、黄河の堤防を破壊した。
その水没流域は、最大幅約28キロ、長さ南北約120キロにも達した。
この洪水による被害は、「水没部落約3500、罹災民約60万人、行方不明約12万人」におよんだ。
そして、この時、濁流に飲まれる支那住民を救ったのは日本軍だった。
6月23日の同盟ニュースは、濁流渦巻く水禍の中、ボートで救助作業をしている日本兵の姿を写している。
また、國史図書刊行会編『支那事変』もその時の写真が掲載されている。
しかし、支那は、この犯行を「日本軍がやった」と嘘の報道をした。
16日付け東京朝日新聞夕刊
【上海特電十五日発】〈上海軍当局談〉 「支那側は目下しきりに黄河堤防決壊は日本軍の所為なりと宣伝に努めつつあるが、決壊地点と称される京水鎮には、まだ、日本軍は進出しておらず・・・」
このように、支那軍は自ら堤防を破壊しながら、それを日本軍がしたと逆宣伝していたわけで、上海のホテルやデパートへの狙い撃ち爆撃などと同じく、毎度お馴染みの卑劣極まりないやり方だった。
支那軍は、この後、揚子江の堤防をも決壊させた。
6月26日同盟ニュース
『悪逆、暴虐、その極に達す 敵、揚子江堤防を決壊』
「悪逆の限り、黄河決壊の暴挙を敢えてなし、無辜の民幾十万かを絶望の淵にたたき込んだ蒋介石は、なんたる無謀か、皇軍を怖るあまり、又しても進撃を阻まんとして、太湖南方揚子江両岸の馬華堤を破壊し、付近一帯の住民は濁流渦巻く大水害に見舞われんとし、怨嗟憤怒は地に満ちている」
さらに、支那軍は、9月23日にも武穴鎮の下流で揚子江を決壊させた。
支那軍は、自分たちが安全に逃げる、ただそれだけのために、 おびただしい数の支那人民の生命と財産を犠牲にした。
そして、お人好しの日本軍に支那住民を救助させた。
しかし、助けられて日本人と仲良くなった者は、戦後、漢奸として裁かれたのだった。
これは メッセージ 5509 (deliciousicecoffee さん)への返信です.