ポンキーのインドネシアでの虐殺と強奪①
投稿者: papa0720nikoniko 投稿日時: 2005/05/09 16:48 投稿番号: [5463 / 41162]
日本にとって戦況が悪化し、サイパンが米軍の手に落ち、次はフィリ
ピンという段階になるとインドネシアは完全に後方に取り残される形と
なった。日本本土との連絡も難しくなってきた。
そうした中で日本軍は人員不足を補うために兵補の制度を作った。兵
補は一応軍人だが、実際にはロームシャと同じように使われた。その数
は四〜五万人と見られているが、敗戦とともに放り出され、賃金の三分
の一は強制貯金させられたまま返らなかった。またインドネシアの防衛
のためという名目で郷土防衛義勇軍(ペタ)を作り日本軍を補助させよ
うとした。
インドネシアの人々の協力を得るために一九四四年九月になってよう
やく日本は近い将来インドネシアに独立を与えることを表明した。日本
軍はスカルノなどの民衆に人気のある民族運動の指導者を利用しようと
し、一方スカルノなどは表面的には日本軍に協力しながら、その影響を
広めようとした。
その一方、連合軍の反撃の前にインドネシア住民が連合軍に通じてい
るのではないかと疑心暗疑になった日本軍は、ポンティアナ事件やババ
ル島事件のような住民虐殺を引き起こしていった。ボルネオ島西海岸の
ポンティアナでは、独立国家建設を計る抗日陰謀事件だとして、一九四
三年から翌年にかけて約一五〇〇名を検挙し、処刑した。チモール島の
東のババル島では、食糧やタバコの強制的な供出を強いられ、横暴な日
本軍に耐えかねた島民が蜂起し、山に立てこもった。日本軍の呼びかけ
に山を下りてきた島民を日本軍はまとめて射殺した。犠牲者は七〇〇人
とも四〇〇人とも言われている。
日本軍の過酷な占領に対する激しい抵抗も次々に起きた。その代表的
な事件が、一九四五年二月に起きたブリタル(東部ジャワ)の郷土防衛
義勇軍による反乱である。日本軍による食糧やロームシャの厳しい徴発
、横暴な態度に怒ったブリタルの義勇軍が反乱を起こしたが、数日後に
日本軍に鎮圧された。日本軍に訓練されたこの義勇軍の反乱はインドネ
シアでは高く評価されている。反乱の指導者スプリヤディは行方不明に
なったが、その栄誉を讃えて独立したインドネシア共和国の初代国防大
臣に任命された。このように日本軍の支配の矛盾が各地で噴き出してい
った。
日本軍の下で独立の準備を進めていたスカルノなどの指導者は日本の
敗戦後の八月一七日に独立宣言を発表し、オランダとの独立戦争に備え
ることになる。
インドネシアのあるジャーナリストは次のように言っている。「日本
人の中には、いまだにインドネシアの独立は日本の援助によってなされ
たのだ、と公言してはばからぬ人がいる。違う!私達は自ら闘ったのだ
。あらゆる障害と闘って、独立を克ち得たのだ。」(ヘラワティ・ディ
ア)
これは メッセージ 1 (the_super_aikokusya さん)への返信です.
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