第一次南京事件5
投稿者: noiseman_labo 投稿日時: 2005/05/03 22:48 投稿番号: [5219 / 41162]
イギリス公使館の書記生ランスロット・ジャイルズは、次のように記している。
王府への攻撃があまりにも激しいので、夜明け前から援軍が送られた。王府で指揮をとっているのは、日本の柴中佐である。・・・
日本兵が最も優秀であることは確かだし、ここにいる士官の中では柴中佐が最優秀と見なされている。日本兵の勇気と大胆さは驚くべきものだ。わがイギリス水兵がこれに
つづく。しかし日本兵がずば抜けて一番だと思う。
王府を守りながらも、柴中佐と日本の将兵は他の戦線でも頼りにされるようになっていった。アメリカが守っている保塁が激しい砲撃を受けた時、応援にかけつけたドイツ、イギリス兵との間で、いっそ突撃して大砲を奪ってはどうか、という作戦が提案され、激しい議論になった。そこで柴中佐の意見を聞こうということになり、呼び出された柴が、成功の公算はあるが、今は我が方の犠牲を最小にすべき時と判断を下すと、もめていた軍議はすぐにまとまった。
イギリス公使館の正面の壁に穴があけられ、数百の清国兵が乱入した時は、柴中佐は安藤大尉以下8名を救援に向かわせた。最も広壮なイギリス公使館には各国の婦女子や負傷者が収容されていたのである。
安藤大尉は、サーベルを振りかざして清国兵に斬りかかり、たちまち数名を切り伏せた。つづく日本兵も次々に敵兵を突き刺すと、清国兵は浮き足立ち、われさきにと壁の外に逃げ出した。館内の敵を一掃すると、今度はイギリス兵が出撃して、30余名の敵を倒した。安藤大尉らの奮戦は、イギリス公使館に避難していた人々の目の前で行われたため、日本兵の勇敢さは讃歎の的となり、のちのちまで一同の語りぐさとなった。
後に体験者の日記を発掘して「北京籠城」という本をまとめ上げたピーター・フレミングは本の中でこう記述している。
戦略上の最重要地点である王府では、日本兵が守備のバックボーンであり、頭脳であった。・・・ 日本軍を指揮した柴中佐は、籠城中のどの士官よりも勇敢で経験もあっ
たばかりか、誰からも好かれ、尊敬された。
当時、日本人とつきあう欧米人はほとんどいなかったがこの籠城をつうじてそれが変わった。日本人の姿が模範生として、みなの目に映るようになった。
日本人の勇気、信頼性、そして明朗さは、籠城者一同の賞賛の的となった。籠城に関する数多い記録の中で、直接的にも間接的にも、一言の非難も浴びていないのは、日本
人だけである。
救援の連合軍が、清国軍や義和団と戦いながら、ついに北京にたどりついたのは、8月13日のことだった。総勢1万6千の半ばを日本から駆けつけた第5師団が占めていた。その他、ロシア3千、英米が各2千、フランス8百などである。籠城していた柴中佐以下は、ほとんど弾薬も尽きた状態だった。
王府への攻撃があまりにも激しいので、夜明け前から援軍が送られた。王府で指揮をとっているのは、日本の柴中佐である。・・・
日本兵が最も優秀であることは確かだし、ここにいる士官の中では柴中佐が最優秀と見なされている。日本兵の勇気と大胆さは驚くべきものだ。わがイギリス水兵がこれに
つづく。しかし日本兵がずば抜けて一番だと思う。
王府を守りながらも、柴中佐と日本の将兵は他の戦線でも頼りにされるようになっていった。アメリカが守っている保塁が激しい砲撃を受けた時、応援にかけつけたドイツ、イギリス兵との間で、いっそ突撃して大砲を奪ってはどうか、という作戦が提案され、激しい議論になった。そこで柴中佐の意見を聞こうということになり、呼び出された柴が、成功の公算はあるが、今は我が方の犠牲を最小にすべき時と判断を下すと、もめていた軍議はすぐにまとまった。
イギリス公使館の正面の壁に穴があけられ、数百の清国兵が乱入した時は、柴中佐は安藤大尉以下8名を救援に向かわせた。最も広壮なイギリス公使館には各国の婦女子や負傷者が収容されていたのである。
安藤大尉は、サーベルを振りかざして清国兵に斬りかかり、たちまち数名を切り伏せた。つづく日本兵も次々に敵兵を突き刺すと、清国兵は浮き足立ち、われさきにと壁の外に逃げ出した。館内の敵を一掃すると、今度はイギリス兵が出撃して、30余名の敵を倒した。安藤大尉らの奮戦は、イギリス公使館に避難していた人々の目の前で行われたため、日本兵の勇敢さは讃歎の的となり、のちのちまで一同の語りぐさとなった。
後に体験者の日記を発掘して「北京籠城」という本をまとめ上げたピーター・フレミングは本の中でこう記述している。
戦略上の最重要地点である王府では、日本兵が守備のバックボーンであり、頭脳であった。・・・ 日本軍を指揮した柴中佐は、籠城中のどの士官よりも勇敢で経験もあっ
たばかりか、誰からも好かれ、尊敬された。
当時、日本人とつきあう欧米人はほとんどいなかったがこの籠城をつうじてそれが変わった。日本人の姿が模範生として、みなの目に映るようになった。
日本人の勇気、信頼性、そして明朗さは、籠城者一同の賞賛の的となった。籠城に関する数多い記録の中で、直接的にも間接的にも、一言の非難も浴びていないのは、日本
人だけである。
救援の連合軍が、清国軍や義和団と戦いながら、ついに北京にたどりついたのは、8月13日のことだった。総勢1万6千の半ばを日本から駆けつけた第5師団が占めていた。その他、ロシア3千、英米が各2千、フランス8百などである。籠城していた柴中佐以下は、ほとんど弾薬も尽きた状態だった。
これは メッセージ 5218 (noiseman_labo さん)への返信です.