「ラベ日記」と「東日記」は『捏造日記』
投稿者: deliciousicecoffee 投稿日時: 2005/03/21 00:20 投稿番号: [4878 / 41162]
日本軍の南京入城当時、民間人は安全区に集められていた。
そして、南京安全区国際委員会(米国人7、英5、独2、デンマーク1の計15名)のジョン・ラーベ委員長は、日本軍司令官に対して次のような書簡を送っている。
「私どもは、貴下の砲兵隊が安全区を攻撃されなかったという美挙に対して、また同地区における中国民間人の援護に対する将来の計画につき貴下(松井軍司令官)と連絡を取り得るようになりましたことに対して、感謝の意を表するものであります」(1937年12月14日)
Ω Ω Ω
ラーベは国際安全委員会の委員長だったが、国際委員会が告発した日本軍による殺害事件の犠牲者は50人ぐらいだった。(1937年12月13日〜38年2月9日)
しかし、
――――――――――――――――
こうした要望や告発の日本側窓口は、当時外交官補の福田篤秦氏である。福田氏はのちに吉田首相の秘書官をつとめ、代議士となり、防衛庁長官、行政管理庁長官、郵政大臣を歴任した信望のある政治家で、筆者とも昵懇の間柄である(東京千代田区在住)。福田氏は当時を回顧してこう語っている。
「当時ぼくは役目がら毎日のように、外人が組織した国際委員会の事務所へ出かけた。出かけてみると、中国の青年が次から次へと駆け込んでくる。
『いまどこどこで日本の兵隊が十五、六の女の子を輪姦している』。あるいは『太平路何号で日本軍が集団でおし入り物をかっぱらっている』等々。その訴えをマギー神父とかフイッチなど三、四人が、ぼくの目の前で、どんどんタイプしているのだ。
『ちょっと待ってくれ。君たちは検証もせずにそれをタイプして抗議されても困る』と幾度も注意した。時には彼らをつれて強姦や掠奪の現場に駆けつけて見ると、何もない。住んでいる者もいない。そんな形跡もない。そういうこともいくどかあった。
ある朝、アメリカの副領事館から私に抗議があった。『下関にある米国所有の木材を、日本軍がトラックで盗み出しているという情報が入った。何とかしてくれ』という。それはいかん、君も立ち会え!というので、司令部に電話して、本郷(忠夫)参謀にも同行をお願いし、副領事と三人で、雪の降る中を下関へ駆けつけた。朝の九時頃である。現場についてみると、人の子一人もおらず、倉庫は鍵がかかっており、盗難の形跡もない。『困るね、こういうことでは!』とぼくもきびしく注意したが、とにかく、こんな訴えが、連日山のように来た。
――――――――――――――――
ドイツは当時、米英と共に蒋介石を援助する軍事顧問団を置いていた。
ラーベの所属するジーメンス社(ドイツ)は、兵器や通信機の製作会社である。
ラーベ日記の検証
http://www5b.biglobe.ne.jp/~nankin/page010.html
「東日記」は、東京地裁、高裁、最高裁で“捏造日記”と断罪された。
東史郎
昭和62年、市民団体の求めで日記を公開し、記者会見した。
同年「わが南京プラトーン」が青木書店から発刊された。
同年「東日記」などを基に「赤旗」報道部長下里正樹が「隠された聯隊史」、平成元年に「南京事件・京都師団関係資料集」を青木書店から出した。
下里は、以前森村誠一と組んで「悪魔の飽食」を出した。
上の市民団体というのもこの下里だ。
―――――――――――――――――
東史郎
歩兵第20連隊第3中隊上等兵
「わが南京プラトーン」という著書で随所に諸上官の悪口を書き、戦友の非行として虐殺、強盗、強姦の情景を描写。
又「7千人の捕虜を各中隊に分配して殺害した」「中隊長自ら斥候(偵察)に行った」等と書いています。
彼は私の連隊の兵士です。
捕虜を各中隊に分配して殺害するというような事はあり得ませんし、現に私の中隊はそんな分配など受けた覚えはありません。
またどんなに激戦であろうとも、中隊長が約200人の部下の指揮を放棄して斥候に行くなんて、そんな馬鹿なことも考えられません。
各中隊はみな「中隊会」という戦友会を持っていますが、そんなウソを平気で書く男ですから、戦友会を除名されております。
また、「東という兵士が倉庫に秘蔵していた手記を我々に資料として提供した」と発表した新聞がありますが、同じ町に住んでいる私の部下が、私に手紙を送ってくれて、
「東の家に倉庫なんてあったことはありません」
と、はっきり言っております。
又、朝日新聞の記事によりますと、彼は自分の階級を「軍曹」と詐称して福岡で講演したこともあります。
森王琢氏(京都福知山20連隊の第3大隊を指揮)の証言
そして、南京安全区国際委員会(米国人7、英5、独2、デンマーク1の計15名)のジョン・ラーベ委員長は、日本軍司令官に対して次のような書簡を送っている。
「私どもは、貴下の砲兵隊が安全区を攻撃されなかったという美挙に対して、また同地区における中国民間人の援護に対する将来の計画につき貴下(松井軍司令官)と連絡を取り得るようになりましたことに対して、感謝の意を表するものであります」(1937年12月14日)
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ラーベは国際安全委員会の委員長だったが、国際委員会が告発した日本軍による殺害事件の犠牲者は50人ぐらいだった。(1937年12月13日〜38年2月9日)
しかし、
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こうした要望や告発の日本側窓口は、当時外交官補の福田篤秦氏である。福田氏はのちに吉田首相の秘書官をつとめ、代議士となり、防衛庁長官、行政管理庁長官、郵政大臣を歴任した信望のある政治家で、筆者とも昵懇の間柄である(東京千代田区在住)。福田氏は当時を回顧してこう語っている。
「当時ぼくは役目がら毎日のように、外人が組織した国際委員会の事務所へ出かけた。出かけてみると、中国の青年が次から次へと駆け込んでくる。
『いまどこどこで日本の兵隊が十五、六の女の子を輪姦している』。あるいは『太平路何号で日本軍が集団でおし入り物をかっぱらっている』等々。その訴えをマギー神父とかフイッチなど三、四人が、ぼくの目の前で、どんどんタイプしているのだ。
『ちょっと待ってくれ。君たちは検証もせずにそれをタイプして抗議されても困る』と幾度も注意した。時には彼らをつれて強姦や掠奪の現場に駆けつけて見ると、何もない。住んでいる者もいない。そんな形跡もない。そういうこともいくどかあった。
ある朝、アメリカの副領事館から私に抗議があった。『下関にある米国所有の木材を、日本軍がトラックで盗み出しているという情報が入った。何とかしてくれ』という。それはいかん、君も立ち会え!というので、司令部に電話して、本郷(忠夫)参謀にも同行をお願いし、副領事と三人で、雪の降る中を下関へ駆けつけた。朝の九時頃である。現場についてみると、人の子一人もおらず、倉庫は鍵がかかっており、盗難の形跡もない。『困るね、こういうことでは!』とぼくもきびしく注意したが、とにかく、こんな訴えが、連日山のように来た。
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ドイツは当時、米英と共に蒋介石を援助する軍事顧問団を置いていた。
ラーベの所属するジーメンス社(ドイツ)は、兵器や通信機の製作会社である。
ラーベ日記の検証
http://www5b.biglobe.ne.jp/~nankin/page010.html
「東日記」は、東京地裁、高裁、最高裁で“捏造日記”と断罪された。
東史郎
昭和62年、市民団体の求めで日記を公開し、記者会見した。
同年「わが南京プラトーン」が青木書店から発刊された。
同年「東日記」などを基に「赤旗」報道部長下里正樹が「隠された聯隊史」、平成元年に「南京事件・京都師団関係資料集」を青木書店から出した。
下里は、以前森村誠一と組んで「悪魔の飽食」を出した。
上の市民団体というのもこの下里だ。
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東史郎
歩兵第20連隊第3中隊上等兵
「わが南京プラトーン」という著書で随所に諸上官の悪口を書き、戦友の非行として虐殺、強盗、強姦の情景を描写。
又「7千人の捕虜を各中隊に分配して殺害した」「中隊長自ら斥候(偵察)に行った」等と書いています。
彼は私の連隊の兵士です。
捕虜を各中隊に分配して殺害するというような事はあり得ませんし、現に私の中隊はそんな分配など受けた覚えはありません。
またどんなに激戦であろうとも、中隊長が約200人の部下の指揮を放棄して斥候に行くなんて、そんな馬鹿なことも考えられません。
各中隊はみな「中隊会」という戦友会を持っていますが、そんなウソを平気で書く男ですから、戦友会を除名されております。
また、「東という兵士が倉庫に秘蔵していた手記を我々に資料として提供した」と発表した新聞がありますが、同じ町に住んでいる私の部下が、私に手紙を送ってくれて、
「東の家に倉庫なんてあったことはありません」
と、はっきり言っております。
又、朝日新聞の記事によりますと、彼は自分の階級を「軍曹」と詐称して福岡で講演したこともあります。
森王琢氏(京都福知山20連隊の第3大隊を指揮)の証言
これは メッセージ 4877 (pza_lljp さん)への返信です.