>歓迎だったら・・・
投稿者: ilovejapan20031102 投稿日時: 2004/11/24 14:32 投稿番号: [4100 / 41162]
(2)難民区からの感謝状
ことのついでにもう一つ難民区について紹介したい。
大量戦死者を出した激戦地下関(シャーカン)から北へ1.8キロの所に宝塔橋街(ほうとうきょうがい)という町がある。
この街の保国寺には、6、7千人の難民が蝟集(いしゅう)していた。
13日には旗艦安宅(あたか・司令官近藤英次郎少将)を先頭に第11戦隊は、劉子江陣地からの猛射を反撃しつつ、閉塞線を突破して、下関に向かった。
保津、勢多を前衛とし、江風、涼風、比良、安宅等主力がこれに続いた。
江上、江岸は敗走する敵の舟艇や筏(いかだ)で充満していた。
各艦はこれに猛攻撃を加えた。14日、砲艦比良は下関下流1浬(カイリ)の中興碼頭(まとう)に停泊し、宝塔橋街の状況調査に任じた。
ここは軍需倉庫の所在地で、引き込み線があり、兵器、食糧、被服等軍需消耗品が蓄積され、付近一帯は地下壕もあり、敗残兵が出没し、治安も乱れ危険きわまりない状態であった。
比良の艦長土井申二中佐(千葉県松戸市在住)は自ら願い出て該地区の整備確保に任じた。
この町の中ごろに紅卍字会の前記の保国寺難民区があり、数千人の難民と約2万人の市民は不安に脅えていた。土井中佐はまず、下関との境の宝塔橋を改修し、あるだけの食糧や被服を給与して民心の安定をはかった。
町の名称も平和街と改名し、敗残兵の跳梁(ちょうりょう)から市民を守った。
町はみるみる復興したが、食糧難が最大の頭痛の種であった。
年末のこと、たまたま烏龍山砲台の閉塞線で第一号掃海艇が触雷沈没し、これが救援に赴くべしとの命令に接し、比良はただちに現場に急行した。
救援作業を終え、多数の死傷者を収容して上海へ急行した。
土井中佐は、上海停泊中に出雲を訪れ、艦隊司令部に出頭して、平和街難民の窮状を訴えた。
土井中佐の熱意と誠実に動かされた司令部は、中佐の申し出通り食糧の救恤を認めた。
比良はこれらの品を積んで中興碼頭に帰ってきた。
13年正月元旦のことである。紅卍字会支部長陳漢林総代表を通して難民区に贈られた品々は次の通りである。
貯蔵牛豚肉 10箱 白砂糖大袋 10袋 乾魚類 10箱
大豆油 10箱 食塩 10包 乾餅 20箱
世界紅卍字会平和街会長 陳漢森(右写真)による領収書(左写真、下は日本語訳)
領収書
貯蔵肉 十箱、 砂糖 十箱、 魚 十箱、
大豆油 十箱、 食塩 十箱、 ビスケット 二十箱、
艦長様から右の如く多くの難民救済の食料品を頂戴致しまして、ご恩に誠に感謝致します
平和街世界赤十字会難民収容所
主任 陳 漢森
(写真説明)大量の戦死者を出した下関(シャーカン)と下関に隣接する宝塔橋街の地図(「証言・南京大虐殺」より)
難民達は爆竹をあげ、各戸に日の丸の旗をかかげて比良を歓迎した。
難民だけではなく市民全員が歓呼して迎えた。
街の入り口には「南京下関平和街」の横断幕をはり、歓喜は街にみなぎった。
明くれば正月2日、代表らは正装して保国寺に整列し、土井中佐始め比良の乗組員全員を迎えた。
陳代表から昨日の救恤品の受領証と感謝状とが贈られた(地図参照)。
私が言いたいのは、光華門外で一番乗りを果たした脇坂部隊(歩兵第36連隊)が、13日夜、味方の戦死体はこれを荼毘(だび)にふし、敵の戦死体には卒塔婆をたて、花香をたむけて、これをねんごろに埋葬し、一晩中読経をあげて弔ったという。
こうした脇坂次郎大佐といい、海軍の土井申二中佐といい、何も特殊な例外ではなくて、日本武士道の伝統をふまえた血も涙もある当時の武人の心境であったということだ。
吉川猛参謀は松井大将に、中国軍の死者の取り扱いがおろそかだ!といって、きついお叱りを受けたと語っている。
このような将兵や司令官がどうして、罪とがもない婦女や子供をむげに殺害するようなことがあろうか?
また、地図にもあるすぐ近くの煤炭港、和記公司でも数千、数万の大虐殺があったと中国側は宣伝しているが、土井艦長はそんな事実も、噂さえも聞いていないとはっきり否定している。
中国側の宣伝がいかに大デタラメかこの一事でもわかろう。
ことのついでにもう一つ難民区について紹介したい。
大量戦死者を出した激戦地下関(シャーカン)から北へ1.8キロの所に宝塔橋街(ほうとうきょうがい)という町がある。
この街の保国寺には、6、7千人の難民が蝟集(いしゅう)していた。
13日には旗艦安宅(あたか・司令官近藤英次郎少将)を先頭に第11戦隊は、劉子江陣地からの猛射を反撃しつつ、閉塞線を突破して、下関に向かった。
保津、勢多を前衛とし、江風、涼風、比良、安宅等主力がこれに続いた。
江上、江岸は敗走する敵の舟艇や筏(いかだ)で充満していた。
各艦はこれに猛攻撃を加えた。14日、砲艦比良は下関下流1浬(カイリ)の中興碼頭(まとう)に停泊し、宝塔橋街の状況調査に任じた。
ここは軍需倉庫の所在地で、引き込み線があり、兵器、食糧、被服等軍需消耗品が蓄積され、付近一帯は地下壕もあり、敗残兵が出没し、治安も乱れ危険きわまりない状態であった。
比良の艦長土井申二中佐(千葉県松戸市在住)は自ら願い出て該地区の整備確保に任じた。
この町の中ごろに紅卍字会の前記の保国寺難民区があり、数千人の難民と約2万人の市民は不安に脅えていた。土井中佐はまず、下関との境の宝塔橋を改修し、あるだけの食糧や被服を給与して民心の安定をはかった。
町の名称も平和街と改名し、敗残兵の跳梁(ちょうりょう)から市民を守った。
町はみるみる復興したが、食糧難が最大の頭痛の種であった。
年末のこと、たまたま烏龍山砲台の閉塞線で第一号掃海艇が触雷沈没し、これが救援に赴くべしとの命令に接し、比良はただちに現場に急行した。
救援作業を終え、多数の死傷者を収容して上海へ急行した。
土井中佐は、上海停泊中に出雲を訪れ、艦隊司令部に出頭して、平和街難民の窮状を訴えた。
土井中佐の熱意と誠実に動かされた司令部は、中佐の申し出通り食糧の救恤を認めた。
比良はこれらの品を積んで中興碼頭に帰ってきた。
13年正月元旦のことである。紅卍字会支部長陳漢林総代表を通して難民区に贈られた品々は次の通りである。
貯蔵牛豚肉 10箱 白砂糖大袋 10袋 乾魚類 10箱
大豆油 10箱 食塩 10包 乾餅 20箱
世界紅卍字会平和街会長 陳漢森(右写真)による領収書(左写真、下は日本語訳)
領収書
貯蔵肉 十箱、 砂糖 十箱、 魚 十箱、
大豆油 十箱、 食塩 十箱、 ビスケット 二十箱、
艦長様から右の如く多くの難民救済の食料品を頂戴致しまして、ご恩に誠に感謝致します
平和街世界赤十字会難民収容所
主任 陳 漢森
(写真説明)大量の戦死者を出した下関(シャーカン)と下関に隣接する宝塔橋街の地図(「証言・南京大虐殺」より)
難民達は爆竹をあげ、各戸に日の丸の旗をかかげて比良を歓迎した。
難民だけではなく市民全員が歓呼して迎えた。
街の入り口には「南京下関平和街」の横断幕をはり、歓喜は街にみなぎった。
明くれば正月2日、代表らは正装して保国寺に整列し、土井中佐始め比良の乗組員全員を迎えた。
陳代表から昨日の救恤品の受領証と感謝状とが贈られた(地図参照)。
私が言いたいのは、光華門外で一番乗りを果たした脇坂部隊(歩兵第36連隊)が、13日夜、味方の戦死体はこれを荼毘(だび)にふし、敵の戦死体には卒塔婆をたて、花香をたむけて、これをねんごろに埋葬し、一晩中読経をあげて弔ったという。
こうした脇坂次郎大佐といい、海軍の土井申二中佐といい、何も特殊な例外ではなくて、日本武士道の伝統をふまえた血も涙もある当時の武人の心境であったということだ。
吉川猛参謀は松井大将に、中国軍の死者の取り扱いがおろそかだ!といって、きついお叱りを受けたと語っている。
このような将兵や司令官がどうして、罪とがもない婦女や子供をむげに殺害するようなことがあろうか?
また、地図にもあるすぐ近くの煤炭港、和記公司でも数千、数万の大虐殺があったと中国側は宣伝しているが、土井艦長はそんな事実も、噂さえも聞いていないとはっきり否定している。
中国側の宣伝がいかに大デタラメかこの一事でもわかろう。
これは メッセージ 4099 (rainnight88 さん)への返信です.