(虐殺其のものがなかった)と言う事実
投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2012/04/24 09:01 投稿番号: [39769 / 41162]
皇軍入城当時の支那人状況
当時南京に残留する支那人の数は二十三万乃至二十五万人と称せられ其の大部分は所謂難民区(漢中路以北、中山路以西の地域)一帯に居住し居り国際安全委員会及び紅卍会中心となり救済、救護其の外の世話をせり
国際委員会は独逸人ラーベーを会長とし在留外国人(当時の外国人ドイツ人五名(奥を一人含む)白露二名、米国人十六名、合計二十三名)の一部委員となり難民収容所二十五個所(旧交通部、金陵大学、同女子大学、同中学校、同■■科、同図書館、山西路小学、湖北小学其の他)を設けたるが其の人員約六萬と称せられたり
難民区に或其の他の避難民約十七万乃至十九万は紅卍会斡旋の素に難民区内の建物住宅内に数十名乃至百名各合宿収容せり
↑唐変木の算数の時間です、嘘吐く君。
これは メッセージ 39768 (fuk*g*wa*ohei さん)への返信です.
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