Re: 歴史辞典等の記述にみる南京事件(4)
投稿者: maximirion 投稿日時: 2012/02/18 14:58 投稿番号: [38940 / 41162]
辞書や百科事典類は、当然
素人が執筆するものではない。
少なくとも
日本で発行されている辞書・事典については専門知識を有すると社会的に公認される
各分野の権威が相当の研究成果と学術的根拠に基づいて編纂されるものだ。>
既にこの認識が、プロパガンダの成れの果てだ。
言論統制の大一歩は、辞書と辞典とその執筆者やアカデミズムの権威付けの統制から始まる。
歴史事実に対して専門知識があるとすること自体が、権威付けによる事実の隠匿を意味している。
公開しない裏付けや証拠というのは、隠匿された裏付けや証拠であって、識者や専門家を名乗る者がその権威によって知り得たなどというのは、裏付けや証拠だとするその身の立ちの根拠の申し立てに虚偽があることを物語る。
客観的な信憑性を持つ裏付けや証拠なるものを公表できないとするのは、公表した際に在野の研究者や一般の知識人などの探求によって、権威付けられた識者や専門家と研究家がその裏付けや証拠からかかる事実を導き出せないことの暴露される可能性があることを示唆する。
まあ、そんなものの記述のコピペを継ぎ接ぎしてモザイクを繰り返す投稿するしか能がない wadatumi_voice21 だから、そんなことには無頓着なのであろう。
辞書や辞典に書いてあれば事実に相違ないと認識するものは、実際には送多くない。
多くの人は、「自分の帰属する社会ではそういうことにしてある」と認識する程度である。
愚かなものは、権威に謙って縋るから、都合の良い記述の辞書や辞典を崇め、都合の悪い辞書や辞典は偽書と決め付けるに止まり、その記述から事実を洞察探求するに及ばない。
事実に対して書かれた記述は、虚偽と真実が混在するを已むを得ない。
その混在する比率は記述により区々であるが、それを見極めるべく洞察と探求する姿勢と努力がなければ、事実に近づく事は出来ない。
真実は言うに及ばず、事実でさえ人智が到達することは出来ない。
だから人は、事実及び真実に極力近づいてそれらに対する認識を得るために洞察と探求をする。
人が知り得る事実と真実は、身の回りの現在状況ですら、ほんの極一部に限られる。
だがその本の一部を知り得認識するためにでさえ、持てる能力を総動員して相当な時間と労力を費やさねばならないのだ。
これは メッセージ 38935 (wad**umi_vo**e21 さん)への返信です.
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