Re: 兵士の陣中日記に見る大虐殺の様相(1
投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2011/12/16 15:08 投稿番号: [37785 / 41162]
トラウトマン
12月8日日本軍は既に麒麟門に到着し砲音は市内で明瞭に聴取せられた、12月9日は終日並外れてすごい空襲が行われたが右攻撃は主として市外の支那軍陣地、城門及び市街南部の軍隊集結個所に対して行われた。
1937年12月10日日本軍は一層進出し城門直前まで進撃した、機関銃及び歩兵砲弾は中山東路に炸裂し至る所空爆に依る破壊が見られた、十日夜柴金山は火を発し11日の朝には日本軍は既に同所に砲兵陣地を設け其処から市街地及び支那陣地に砲撃を加えていた
12月12日日曜日は極めて静穏に明けた、日本軍砲兵は最早市内向けて発砲せず唯二三の飛行機が見られた、支那空軍高射砲は日本機が市街の上に低空で現ると尚射撃した。昼近く戦闘は再び活発になった。日本軍は城門及び突破口予定個所に砲火を集中した、午后中浦口は支那軍の退却を不可能ならしむる為、日本機により猛烈に空襲せられた、此の空襲の殆ど凡ての英国船及び怡和ハルク号は酷く損傷を受けた
日本軍の武装発動線も現れたけれども、主に河の中央を航行した。
午后支那軍の退却は市街南部の部隊の退却を以て開始せられた、退却命令は退却の開始を午後八時と云われたが、実際にはもっと早く開始せられた、午後五時迄には退却秩序ある集団となって極めて静粛に開始せられた、午後五時を過ぎると調子は早くなり、次第に秩序は乱れ遂に真夜中近く退却は本当の大逃走に変貌した
退却は杷江門の妨害の為極めて困難だった、城門の一翼のみ開かれたるが而も其れも砂の防により狭められた為「トラック」がやっと通れる位であった、其の上鉄道省の近くには路の片側の半分塞ぎ且12月12日既に交通の一大障碍と為っていた防塞が積み上がられていた、
12月12日の午後日本機は既に其の主活動地域を河へ移した、夕刻逓信省が火を発し始め退却路を照らしたがやがて此の退却路も殆ど完全に阻まれた
12月13日朝近く
退却は速力を落とし下関門は閉ざされ、且防塞が築かれた、市中には残留せるものは総て包囲せられた、而も尚多く残っていた、・・・中略・・・・
ある個所では戦火が再び燃え上がったが此の支那軍の反攻も戦車を豊富に使用せる日本軍に依り撃滅された。12月13日の正午近くの市街は全く静粛となった、支那の住民達は家屋や壕の中に隠れて未だ来ぬ日本軍を待ち受けた
↑上記のように13日の午後には銃声が無くなったんだよ、脳死君。
これは メッセージ 37778 (shoujouji さん)への返信です.
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