シベリア抑留
投稿者: fukagawatohei 投稿日時: 2011/08/17 09:38 投稿番号: [36700 / 41162]
棄兵・棄民の責任を問う
シベリア抑留国家賠償請求訴訟
2007年12月26日、第二次世界大戦終戦後、シベリアに抑留された旧日本軍兵士30名が国を相手取って京都地裁に提訴しました。その後、8名が追加提訴を行い、現在(2008年4月)、原告は38名となっています。この訴訟で、原告らは、第二次世界大戦終戦時、原告ら旧日本軍兵士のシベリア抑留を招くこととなった日本の棄兵・棄民政策の違法性と責任を追及しています。
日本の「棄兵・棄民」政策
第二次世界大戦も末期の1945年、イタリア、ドイツが相次いで降伏し、日本もまた太平洋戦争で連合国に対して劣勢に立たされていました。ドイツ降伏後、ソ連が極東に軍隊を大移動させていたことから、日本は、一方では対ソ戦争を準備しつつ、他方では、日ソ中立条約が1946年4月まで有効であったことから、ソ連を仲介とする終戦工作を模索しはじめました。
終戦工作の中で、日本は、最低限「国体の護持」さえ維持できればよいとして、ソ連に対して「賠償として一部の労力を提供することには同意する」との提案をするまでに至りました。その結果、終戦後、関東軍総司令部からソ連側に対し、「次は軍人の処置であります…満州にとどまって貴軍の経営に協力せしめ其他は逐次内地に帰還せしめられ度いと存じます。右帰還迄の間に於きましては極力貴軍の経営に協力する如く御使い願いたいと思います。」などという提案がなされることとなりました(「ワシレフスキー元帥に対する報告」)。日本は、「国体」すなわち天皇制維持のために、ソ連に対し、旧日本軍の軍人・軍属を労働力として提供したのです。これが日本による棄兵政策です。
また、ドイツ降伏後の対ソ戦争の準備の中で、関東軍は、旧満州のほぼ4分の3を放棄する計画を立て、極秘に準備を進めていました。そして、1945年8月8日、ソ連が宣戦布告し、旧満州地域に侵攻してくると、関東軍の大部分が旧満州大部分から満州南部・朝鮮北部に退却していったのです。他方で、旧満州地域に開拓団として植民していた180万人もの日本人に対しては、対ソ戦争が近いことを隠し続け、ソ連侵攻後も現地土着政策をとり続け、まさに、旧満州地域とそこに住む日本人居留民を、日本本国の防波堤としたのです。この棄民政策の結果、多くの日本人が、広大な満州を無防備で逃げ惑い、命を落とし、あるいは中国に残留して日本人孤児として戦後を生きなければならなくなりました。
このように、「国体」すなわち天皇制を維持するため、あるいは、日本本土へのソ連侵攻を阻止するために、日本政府が、旧日本軍兵士と旧満州居留民を見捨てたのが「棄兵・棄民」政策です。
そして、この棄兵政策は、まさに日本の国策として行われ、旧日本軍兵士の武装解除とソ連への引き渡しは、旧日本軍の指揮下で速やかに行われることとなりました。
ここから、シベリア抑留が始まることとなります。
2007年12月26日、第二次世界大戦終戦後、シベリアに抑留された旧日本軍兵士30名が国を相手取って京都地裁に提訴しました。その後、8名が追加提訴を行い、現在(2008年4月)、原告は38名となっています。この訴訟で、原告らは、第二次世界大戦終戦時、原告ら旧日本軍兵士のシベリア抑留を招くこととなった日本の棄兵・棄民政策の違法性と責任を追及しています。
日本の「棄兵・棄民」政策
第二次世界大戦も末期の1945年、イタリア、ドイツが相次いで降伏し、日本もまた太平洋戦争で連合国に対して劣勢に立たされていました。ドイツ降伏後、ソ連が極東に軍隊を大移動させていたことから、日本は、一方では対ソ戦争を準備しつつ、他方では、日ソ中立条約が1946年4月まで有効であったことから、ソ連を仲介とする終戦工作を模索しはじめました。
終戦工作の中で、日本は、最低限「国体の護持」さえ維持できればよいとして、ソ連に対して「賠償として一部の労力を提供することには同意する」との提案をするまでに至りました。その結果、終戦後、関東軍総司令部からソ連側に対し、「次は軍人の処置であります…満州にとどまって貴軍の経営に協力せしめ其他は逐次内地に帰還せしめられ度いと存じます。右帰還迄の間に於きましては極力貴軍の経営に協力する如く御使い願いたいと思います。」などという提案がなされることとなりました(「ワシレフスキー元帥に対する報告」)。日本は、「国体」すなわち天皇制維持のために、ソ連に対し、旧日本軍の軍人・軍属を労働力として提供したのです。これが日本による棄兵政策です。
また、ドイツ降伏後の対ソ戦争の準備の中で、関東軍は、旧満州のほぼ4分の3を放棄する計画を立て、極秘に準備を進めていました。そして、1945年8月8日、ソ連が宣戦布告し、旧満州地域に侵攻してくると、関東軍の大部分が旧満州大部分から満州南部・朝鮮北部に退却していったのです。他方で、旧満州地域に開拓団として植民していた180万人もの日本人に対しては、対ソ戦争が近いことを隠し続け、ソ連侵攻後も現地土着政策をとり続け、まさに、旧満州地域とそこに住む日本人居留民を、日本本国の防波堤としたのです。この棄民政策の結果、多くの日本人が、広大な満州を無防備で逃げ惑い、命を落とし、あるいは中国に残留して日本人孤児として戦後を生きなければならなくなりました。
このように、「国体」すなわち天皇制を維持するため、あるいは、日本本土へのソ連侵攻を阻止するために、日本政府が、旧日本軍兵士と旧満州居留民を見捨てたのが「棄兵・棄民」政策です。
そして、この棄兵政策は、まさに日本の国策として行われ、旧日本軍兵士の武装解除とソ連への引き渡しは、旧日本軍の指揮下で速やかに行われることとなりました。
ここから、シベリア抑留が始まることとなります。
これは メッセージ 36695 (nanja3231 さん)への返信です.