南京の元兵士の日記はニセモノ
投稿者: nannkainosima 投稿日時: 2010/10/07 08:24 投稿番号: [34051 / 41162]
秦郁彦著『南京事件』中公新書p131に、
昭和12年の、井家又一上等兵の日記の現物が写真版で掲載されていますが、
中国製作のニセモノではないでしょうか。
これは南京入場式の前日、12月16日に難民区を掃蕩したという記事です。
「12月16日」が「拾貳月拾六日」、「(〜して)しまった」が「志満っ多」。
こんな書き方は、当時、日本国内では、やっていなかったのではないかと思います。
昭和10年版の平凡社『手紙講座』全8巻が手元にあり、著名人?たちの手紙実例を見ることができます。
この講座は、国会図書館にもあります。
「志満っ多」はありません。
近代の日記の現物に詳しいわけではありませんが、「かな」の使われ方、「現代ひらがな」の登場に関しては、自分で見てきた経緯があります。
室町・戦国時代や江戸時代などの筆跡実例も見てきました。
江戸時代の出版物の寺子屋教科書『往来物大系』も、あちこち繰ってみた経験があります。
明治以降の「手紙手本」や「かな手本」(変体仮名です)も手元にあります。
そもそも「(〜して)しまった」というような口語文というのが明治以降のものですが、
ひらがなは、幕末に活字印刷で「現代ひらがな」の使用が始まり、
明治33年(1900年)の小学校令で、「現代ひらがな」使用が固定化した、
というのが通常の理解です。
私が知っている例では、近くの郷土資料館に、明治6年の「現代ひらがな」での本があり(明治初期は江戸時代の「いろは」字群のままの本もある)、
明治33年の数年前から、「現代ひらがな」の子供用雑誌が出ていたことが確認できます。
新聞は確認しておりませんが、幕末の試行錯誤の時期に「かな」新聞(かなの内容はわかりません)が発行されたことから考えると、
新聞も早くから「現代ひらがな」のものが出ていたのではないかと思っております。
つまり、昭和12年(1937年)に44歳以下の普通の兵隊さんは、
特別でない限り、日常は「現代ひらがな」を使ったと思われます。
また口語文の「しまった」で、「志満っ多」という変体仮名は、歴史的に見て、日本人は、普通は使いません。
凝った文字を使う和歌などの書には使っていますが、口語文の筆跡実例ではかなりの違和感があります。
そして、ネット検索で出てくる井家又一日記の文章については、きちんと目を通すと、日本語ではない、という感想の方が多い。
また、人の生活としては異常な日であるのに、
清書したような整然とした字面、画数の多い凝った文字は変です。
井家又一日記は、中国共産党か国民党の情報工作員が作成した、偽作だと、私は思います。
以下は仮説ですが、「虐殺場面を日記に書いた兵士は、中国軍に捕虜になっていた。
南京の地理や事件に詳しい、
中国共産党(あるいは国民党)の情報工作員が、虐殺事件を作文した。
それを捕虜の一部に強制して書かせ、あるいは偽作の日記を持たせて、
命の保証と帰国許可の踏み絵にした。
中国共産党・国民党に、『絶対に日記を捨ててはいけない。我々は必ず確認に行く。家族が大事だったら、捨てるな』
そう言われたので、捨てるに捨てられなかった。」
きびしい検閲があったと書いてある本(笠原『南京事件』岩波新書p102、p228)もありますが、
これはむしろ、虐殺描写がない日記が存在するのは、検閲がきびしかったからだろう、という仮説ではないかと見ました。
検閲が厳しかったのなら、なぜ虐殺描写のある日記が存在するのでしょう。
それについては、説明になっておりません。
中国産の偽作「元兵士の日記」が一つあるからには、いろいろなことが考えられます。
虐殺記事には、裏があるのではないでしょうか。
昭和12年の、井家又一上等兵の日記の現物が写真版で掲載されていますが、
中国製作のニセモノではないでしょうか。
これは南京入場式の前日、12月16日に難民区を掃蕩したという記事です。
「12月16日」が「拾貳月拾六日」、「(〜して)しまった」が「志満っ多」。
こんな書き方は、当時、日本国内では、やっていなかったのではないかと思います。
昭和10年版の平凡社『手紙講座』全8巻が手元にあり、著名人?たちの手紙実例を見ることができます。
この講座は、国会図書館にもあります。
「志満っ多」はありません。
近代の日記の現物に詳しいわけではありませんが、「かな」の使われ方、「現代ひらがな」の登場に関しては、自分で見てきた経緯があります。
室町・戦国時代や江戸時代などの筆跡実例も見てきました。
江戸時代の出版物の寺子屋教科書『往来物大系』も、あちこち繰ってみた経験があります。
明治以降の「手紙手本」や「かな手本」(変体仮名です)も手元にあります。
そもそも「(〜して)しまった」というような口語文というのが明治以降のものですが、
ひらがなは、幕末に活字印刷で「現代ひらがな」の使用が始まり、
明治33年(1900年)の小学校令で、「現代ひらがな」使用が固定化した、
というのが通常の理解です。
私が知っている例では、近くの郷土資料館に、明治6年の「現代ひらがな」での本があり(明治初期は江戸時代の「いろは」字群のままの本もある)、
明治33年の数年前から、「現代ひらがな」の子供用雑誌が出ていたことが確認できます。
新聞は確認しておりませんが、幕末の試行錯誤の時期に「かな」新聞(かなの内容はわかりません)が発行されたことから考えると、
新聞も早くから「現代ひらがな」のものが出ていたのではないかと思っております。
つまり、昭和12年(1937年)に44歳以下の普通の兵隊さんは、
特別でない限り、日常は「現代ひらがな」を使ったと思われます。
また口語文の「しまった」で、「志満っ多」という変体仮名は、歴史的に見て、日本人は、普通は使いません。
凝った文字を使う和歌などの書には使っていますが、口語文の筆跡実例ではかなりの違和感があります。
そして、ネット検索で出てくる井家又一日記の文章については、きちんと目を通すと、日本語ではない、という感想の方が多い。
また、人の生活としては異常な日であるのに、
清書したような整然とした字面、画数の多い凝った文字は変です。
井家又一日記は、中国共産党か国民党の情報工作員が作成した、偽作だと、私は思います。
以下は仮説ですが、「虐殺場面を日記に書いた兵士は、中国軍に捕虜になっていた。
南京の地理や事件に詳しい、
中国共産党(あるいは国民党)の情報工作員が、虐殺事件を作文した。
それを捕虜の一部に強制して書かせ、あるいは偽作の日記を持たせて、
命の保証と帰国許可の踏み絵にした。
中国共産党・国民党に、『絶対に日記を捨ててはいけない。我々は必ず確認に行く。家族が大事だったら、捨てるな』
そう言われたので、捨てるに捨てられなかった。」
きびしい検閲があったと書いてある本(笠原『南京事件』岩波新書p102、p228)もありますが、
これはむしろ、虐殺描写がない日記が存在するのは、検閲がきびしかったからだろう、という仮説ではないかと見ました。
検閲が厳しかったのなら、なぜ虐殺描写のある日記が存在するのでしょう。
それについては、説明になっておりません。
中国産の偽作「元兵士の日記」が一つあるからには、いろいろなことが考えられます。
虐殺記事には、裏があるのではないでしょうか。