>戦争を始めたのも拡大したのも支那?
投稿者: deliciousicecoffee 投稿日時: 2004/10/04 00:32 投稿番号: [3252 / 41162]
>馬鹿を書くな、
>停戦協定を破ったのは日本軍だ
>かの悪名高き関東軍だよ。
―――――――――――――――――――
直ちに彼らは日中共同の調査団を結成し、現地へ派遣した。その結果、7月8日午前6時に戦闘は止んだ。
しかし当日午後3時及び午後6時に、中国軍は日本軍に銃撃を浴びせてきた。
翌朝7月9日、中国29路軍の代表と日本軍松井大佐との間に休戦協定が結ばれた。
7月10日午後5時から午後8時の間に、200人以上の中国兵が迫撃砲を使用して新たな攻撃を開始。これは休戦協定を完全に無視したものであった。日本軍は当然のことながら応戦した。しかしながらまた休戦協定が結ばれた。
(中略)
7月11日に日本政府は現地の日本軍に指令を送り、早期解決を図るべく努力を傾注するよう促した。
同日午後4時、日本側の松井大佐と中国側の張自忠(天津市長)及び殷雲(河北省の公安長官)との間で協定が結ばれた。
(中略)
7月13日、第29路軍の司令官であり河北・チャハル政治会議(事件を処理する十分な力がある)議長である宋哲元将軍は天津へ赴き、日本軍守備隊司令官の葛城陸軍中将と交渉を始めた。
将軍は前記の条項を事実上受け入れ、7月18日盧溝橋事件について遺憾の意を表明し、事件収束の方向に向けてスタートした。
ところが南京政府は、この事件を交渉によってではなく武力によって解決する決定を下した。盧溝橋に最初の銃声が響き渡るやいなや、南京は動員を開始。7月9日、南京政府は4個師団と戦闘機を北部へ派遣。これらは勿論、もう既に北支に大量に存在していた中国軍に追加されたものである。
7月19日までに30個師団(約20万人)もの中国軍が北支に集結。このうち約8万人が北京周辺に展開。同日南京政府は、この事件に関する地域レベルでの決着は一切認めないし、東京は直接南京と交渉しなければならない、ときっぱり日本に通告した。これは、河北・チャハル政治会議議長と日本軍守備隊司令官との間で結ばれた協定を南京政府が拒否するつもりであることを意味する。
(中略)
7月20日、宋哲元の誓約にもかかわらず、第37師団の部隊は盧溝橋付近で再び日本軍に対する攻撃を再開した。
宋哲元将軍は、7月21日正午までに第37師団の撤退を行う、と日本軍司令官葛城将軍に再び保証した。
同日午前11時蒋介石は会議を開き、日本に対して戦争の手段に訴えることを公式に採択した。
7月23日、蒋介石の右腕といわれる南京副幕僚長孫浜将軍は飛行機で北京と保定に赴き、その地域の軍隊に日本軍と戦うよう勧告し、金・人・武器の面で南京政府からの寛大な援助を彼らに約束した。
(中略)
それにもかかわらず7月25日、葛城司令官はこの事件が平和的に解決されるだろうという意見を表明。彼がこのような楽観的な意見を述べているときでさえも、中国軍は北京・天津間を結ぶ日本軍の電話線を切断したりした。
(中略)
同日午後11時までに修復工事は完了し、日本軍の技師と兵士は鉄道の駅で遅い夕食を食べていた。その時突然、中国軍が攻撃してきた。彼らはライフル、手榴弾、機関銃、そして迫撃砲をも使用していた。
『シナ大陸の真相』
〆 〆 〆
その他
7月13日、日本軍のトラック2台に手榴弾が投げ込まれ全員が死亡。
7月14日、日本軍の騎馬兵が惨殺される。
>停戦協定を破ったのは日本軍だ
>かの悪名高き関東軍だよ。
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直ちに彼らは日中共同の調査団を結成し、現地へ派遣した。その結果、7月8日午前6時に戦闘は止んだ。
しかし当日午後3時及び午後6時に、中国軍は日本軍に銃撃を浴びせてきた。
翌朝7月9日、中国29路軍の代表と日本軍松井大佐との間に休戦協定が結ばれた。
7月10日午後5時から午後8時の間に、200人以上の中国兵が迫撃砲を使用して新たな攻撃を開始。これは休戦協定を完全に無視したものであった。日本軍は当然のことながら応戦した。しかしながらまた休戦協定が結ばれた。
(中略)
7月11日に日本政府は現地の日本軍に指令を送り、早期解決を図るべく努力を傾注するよう促した。
同日午後4時、日本側の松井大佐と中国側の張自忠(天津市長)及び殷雲(河北省の公安長官)との間で協定が結ばれた。
(中略)
7月13日、第29路軍の司令官であり河北・チャハル政治会議(事件を処理する十分な力がある)議長である宋哲元将軍は天津へ赴き、日本軍守備隊司令官の葛城陸軍中将と交渉を始めた。
将軍は前記の条項を事実上受け入れ、7月18日盧溝橋事件について遺憾の意を表明し、事件収束の方向に向けてスタートした。
ところが南京政府は、この事件を交渉によってではなく武力によって解決する決定を下した。盧溝橋に最初の銃声が響き渡るやいなや、南京は動員を開始。7月9日、南京政府は4個師団と戦闘機を北部へ派遣。これらは勿論、もう既に北支に大量に存在していた中国軍に追加されたものである。
7月19日までに30個師団(約20万人)もの中国軍が北支に集結。このうち約8万人が北京周辺に展開。同日南京政府は、この事件に関する地域レベルでの決着は一切認めないし、東京は直接南京と交渉しなければならない、ときっぱり日本に通告した。これは、河北・チャハル政治会議議長と日本軍守備隊司令官との間で結ばれた協定を南京政府が拒否するつもりであることを意味する。
(中略)
7月20日、宋哲元の誓約にもかかわらず、第37師団の部隊は盧溝橋付近で再び日本軍に対する攻撃を再開した。
宋哲元将軍は、7月21日正午までに第37師団の撤退を行う、と日本軍司令官葛城将軍に再び保証した。
同日午前11時蒋介石は会議を開き、日本に対して戦争の手段に訴えることを公式に採択した。
7月23日、蒋介石の右腕といわれる南京副幕僚長孫浜将軍は飛行機で北京と保定に赴き、その地域の軍隊に日本軍と戦うよう勧告し、金・人・武器の面で南京政府からの寛大な援助を彼らに約束した。
(中略)
それにもかかわらず7月25日、葛城司令官はこの事件が平和的に解決されるだろうという意見を表明。彼がこのような楽観的な意見を述べているときでさえも、中国軍は北京・天津間を結ぶ日本軍の電話線を切断したりした。
(中略)
同日午後11時までに修復工事は完了し、日本軍の技師と兵士は鉄道の駅で遅い夕食を食べていた。その時突然、中国軍が攻撃してきた。彼らはライフル、手榴弾、機関銃、そして迫撃砲をも使用していた。
『シナ大陸の真相』
〆 〆 〆
その他
7月13日、日本軍のトラック2台に手榴弾が投げ込まれ全員が死亡。
7月14日、日本軍の騎馬兵が惨殺される。
これは メッセージ 3249 (oityantyan さん)への返信です.