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投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2009/11/21 11:58 投稿番号: [30202 / 41162]
時代区分
1943年までの時期は、慰安婦に関する公文書の記録が非常に少ないが、その時期でも、インドネシア人やヨーロッパ人女性の募集は、地方ごとに小規模な慰安所用に行われていたという。1944年の初頭に起こったスマラン事件を始めとする中部ジャワ抑留所関連の事件は、高級将校によって終止符が打たれた経過からも、事件は、確かにジャワにいたオランダ人慰安婦の募集という点において、1つの転機になったということは、オランダ3公文書館の資料からもある程度理解できたが、その事が直接他の人種、民族の募集でも同様であったとは限らない。しかし、この時期の前後半年間に(インドネシアの周辺で)種々の変化が起こったことを付け加えておく。1943年後半にはマレー半島の慰安施設の規定の発行、同年12月には、ボルネオで正式な慰安所数軒を開設、そして翌年の1944年初頭には、ハルマヘラでも慰安所が開設されていった。時期的に近接しているこれら一連の事例が、それぞれ何らかの結びつきがあるのかは、今後さらに詳細な記述のある記録の発掘がない限り、結論をだすのは難しい。
最後に、今回の調査で公文書それぞれに規則性また性格があることが理解できた。詳細が綴ってある資料は、ジャワBC級戦犯裁判に関連するものであった。しかし他の地域で訴因は慰安婦とは全く関係がなさそうな戦犯裁判関係の資料の中に、微少ではあるが慰安婦に関する記述があった。つまり、無関係に見える資料の中から慰安所の開設、慰安婦の募集、慰安所の運営等の記録の多くが発見されるということである。このことは、当調査報告に記述がないから、あるいはBC級裁判や公文書の分類が慰安婦に関することではないからといって、オランダ公文書館に資料が存在していないというわけではないことである。
すでにスマラン慰安所事件の犠牲者ジーン・ラフ・オハーンの証言に見られるように、資料の記述が最近の証言の事実確認を手助けしていること
があり、証言に加え、これらの公文書資料は豊富な情報源になる上、50年以上経った記憶の変化も同時に示唆してくれる。ヨーロッパ人また印欧混血人女性の関わっている慰安婦に関する情報や、慰安婦の徴募、日本人男性との他の性的関係の募集といった情報は、外国旅行者や高級官史の身元調査の書類の中にも少ないながら記録が残っている。他には、慰安所のあった場所、慰安婦の人数や出身、女性の移動や、地方別の女性募集の手管についての記録が、戦中、戦後の資料と共にオランダ公文書館に所蔵されている。非ヨーロッパ女性の慰安婦に関しては、こういった断片的で「些細な」記録の中に書かれている。こういった一つ一つの断片的記録は、それ自体では、あまり信憑性もないし、さして重要な資料ではないが、他の資・史料や証言と併せ、双方の情報の正確性を検討した上で歴史の再構築に役立てることは可能である。また、個々の情報を見るのではなく、包括的に検証し全体像を掴むために使用すると、第2次世界大戦中のインドネシアにおける慰安婦を知る上で大いに価値のある記録として生きてくると思われる。
1943年までの時期は、慰安婦に関する公文書の記録が非常に少ないが、その時期でも、インドネシア人やヨーロッパ人女性の募集は、地方ごとに小規模な慰安所用に行われていたという。1944年の初頭に起こったスマラン事件を始めとする中部ジャワ抑留所関連の事件は、高級将校によって終止符が打たれた経過からも、事件は、確かにジャワにいたオランダ人慰安婦の募集という点において、1つの転機になったということは、オランダ3公文書館の資料からもある程度理解できたが、その事が直接他の人種、民族の募集でも同様であったとは限らない。しかし、この時期の前後半年間に(インドネシアの周辺で)種々の変化が起こったことを付け加えておく。1943年後半にはマレー半島の慰安施設の規定の発行、同年12月には、ボルネオで正式な慰安所数軒を開設、そして翌年の1944年初頭には、ハルマヘラでも慰安所が開設されていった。時期的に近接しているこれら一連の事例が、それぞれ何らかの結びつきがあるのかは、今後さらに詳細な記述のある記録の発掘がない限り、結論をだすのは難しい。
最後に、今回の調査で公文書それぞれに規則性また性格があることが理解できた。詳細が綴ってある資料は、ジャワBC級戦犯裁判に関連するものであった。しかし他の地域で訴因は慰安婦とは全く関係がなさそうな戦犯裁判関係の資料の中に、微少ではあるが慰安婦に関する記述があった。つまり、無関係に見える資料の中から慰安所の開設、慰安婦の募集、慰安所の運営等の記録の多くが発見されるということである。このことは、当調査報告に記述がないから、あるいはBC級裁判や公文書の分類が慰安婦に関することではないからといって、オランダ公文書館に資料が存在していないというわけではないことである。
すでにスマラン慰安所事件の犠牲者ジーン・ラフ・オハーンの証言に見られるように、資料の記述が最近の証言の事実確認を手助けしていること
があり、証言に加え、これらの公文書資料は豊富な情報源になる上、50年以上経った記憶の変化も同時に示唆してくれる。ヨーロッパ人また印欧混血人女性の関わっている慰安婦に関する情報や、慰安婦の徴募、日本人男性との他の性的関係の募集といった情報は、外国旅行者や高級官史の身元調査の書類の中にも少ないながら記録が残っている。他には、慰安所のあった場所、慰安婦の人数や出身、女性の移動や、地方別の女性募集の手管についての記録が、戦中、戦後の資料と共にオランダ公文書館に所蔵されている。非ヨーロッパ女性の慰安婦に関しては、こういった断片的で「些細な」記録の中に書かれている。こういった一つ一つの断片的記録は、それ自体では、あまり信憑性もないし、さして重要な資料ではないが、他の資・史料や証言と併せ、双方の情報の正確性を検討した上で歴史の再構築に役立てることは可能である。また、個々の情報を見るのではなく、包括的に検証し全体像を掴むために使用すると、第2次世界大戦中のインドネシアにおける慰安婦を知る上で大いに価値のある記録として生きてくると思われる。