ダーティン記者の証言
投稿者: fukagawatohei 投稿日時: 2009/10/06 13:29 投稿番号: [29447 / 41162]
ダーティン記者は1938年1月9日付の記事でも中国の南京防衛について、合計16個師団だが、1師団の兵力は2千から3千人程度に減っているので総計約5万人と推定している。
同記者にはその同じ記事のなかで、中国軍の死者数について日本軍が南京への本格的攻撃を開始した12月上旬から市内を占領して3日目の12月15日までに3万3千人が死んだと伝え、そのうちの2万人が処刑されたとみられる、と報道している。
―捕虜の処刑は実際に目撃しましたか。
「はい。私が南京を去ることになる12月15日にも城門のすぐ外の揚子江の水ぎわで日本軍が機関銃で中国軍の捕虜を射殺しているのを見ました。
捕虜たちは50人くらいずつにまとめられ、並べられて射殺されるのです。
そのあとにすぐまた50人ほどの次のグループが引き出され、機関銃の連射で殺されるのです。この処刑が進行している間に別の日本軍の将兵が近くにたむろしてタバコを喫ったり、大声で話し合っていた光景をいまでもよく覚えています」
―中国の捕虜の側は抵抗とか逃走をまったく試みなかったのですか。
「その捕虜たちが両手を縛られていたかどうかはもう覚えていませんが、さからっても無駄なことは明白でした。
中国軍は司令官が逃げて、指揮系統が混乱してしまったこともあって、日本軍が城内に入ってからはすぐ抵抗をやめ降伏するか、軍服を脱ぎすてて民間人の群にまぎれこむかでした。
とても無気力だったのです。軍服を脱いだ軍人達の多くは『安全地区』に逃げ込みました」
『安全地区』(セーフティーゾーン)というのは、外国人の宣教師や教師、医師が中心になってつくった民間人のための避難地域である。
この地区を管理する委員会では日中両軍にその安全区の尊重を呼びかけていた。
―『安全地区』には何人くらいが集まっていたのでしょうか。
「私の当時の推定では約10万人だったと思います。
しかしここにも日本軍が入ってきました。中国兵が多数まぎれこんで民間人を装っていたことが原因だといえばいえます。
そのために日本軍に『安全地区』に入って捜査をする口実を与えてしまった。
兵隊ならば衣類を脱ぐと、銃や背嚢(はいのう)をかついでいた跡が半分タコのようになって体に残っているのがわかるとというのです。
若い中国の男たちはみな日本軍に調べられ、兵士だと断定されると『安全地区』内でも殺されるというケースがよくありました。
ただ日本軍も外部からいきなり『安全地区』に攻撃をかけるようなことはしなかった。
市内の他地域での流血にくらべれば、まるでたいしたことはありませんでした。」
ダーティン記者は、南京市内での日本軍による民間人の無差別殺害をも、当時、くわしく報道していた。
「12月15日に南京市内を広範にみてまわった外国人たちは、民間人の死体があちこちにあるのを目撃した。犠牲者のなかには老人や子供もいた。警官や消防夫がとくに攻撃の標的となった」(1937年12月18日付報道)
「興奮や恐怖に駆られて日本軍の近くを突っ走った中国人はすぐに狙撃された。明かに背中から射たれた老人の死体などが、うつ伏せになって歩道によく横たわっていた」(1938年1月9日付報道)
予想されなかった虐殺
―日本軍はやはり民間人をも無差別に殺したのですか。
「はい、無差別の殺害といえます。銃で射つのがもっとも多かった。
銃剣を使う場合もあった。
とにかくウサギを殺すような感じでの虐殺が行われたのです」
ダーティン氏はこうした発言をしながらもとくに表情は変えず、淡々とした口調で語りつづける。
「南京の日本軍兵士は、上層部から略奪や虐殺をしてもよいという通達を受けているような印象を、私は受けました。
『中国人を殺せ』というような命令ではないにせよ、『殺してもかまわない』というような通達です。こうした行動は私には大きなおどろきでした」
同記者にはその同じ記事のなかで、中国軍の死者数について日本軍が南京への本格的攻撃を開始した12月上旬から市内を占領して3日目の12月15日までに3万3千人が死んだと伝え、そのうちの2万人が処刑されたとみられる、と報道している。
―捕虜の処刑は実際に目撃しましたか。
「はい。私が南京を去ることになる12月15日にも城門のすぐ外の揚子江の水ぎわで日本軍が機関銃で中国軍の捕虜を射殺しているのを見ました。
捕虜たちは50人くらいずつにまとめられ、並べられて射殺されるのです。
そのあとにすぐまた50人ほどの次のグループが引き出され、機関銃の連射で殺されるのです。この処刑が進行している間に別の日本軍の将兵が近くにたむろしてタバコを喫ったり、大声で話し合っていた光景をいまでもよく覚えています」
―中国の捕虜の側は抵抗とか逃走をまったく試みなかったのですか。
「その捕虜たちが両手を縛られていたかどうかはもう覚えていませんが、さからっても無駄なことは明白でした。
中国軍は司令官が逃げて、指揮系統が混乱してしまったこともあって、日本軍が城内に入ってからはすぐ抵抗をやめ降伏するか、軍服を脱ぎすてて民間人の群にまぎれこむかでした。
とても無気力だったのです。軍服を脱いだ軍人達の多くは『安全地区』に逃げ込みました」
『安全地区』(セーフティーゾーン)というのは、外国人の宣教師や教師、医師が中心になってつくった民間人のための避難地域である。
この地区を管理する委員会では日中両軍にその安全区の尊重を呼びかけていた。
―『安全地区』には何人くらいが集まっていたのでしょうか。
「私の当時の推定では約10万人だったと思います。
しかしここにも日本軍が入ってきました。中国兵が多数まぎれこんで民間人を装っていたことが原因だといえばいえます。
そのために日本軍に『安全地区』に入って捜査をする口実を与えてしまった。
兵隊ならば衣類を脱ぐと、銃や背嚢(はいのう)をかついでいた跡が半分タコのようになって体に残っているのがわかるとというのです。
若い中国の男たちはみな日本軍に調べられ、兵士だと断定されると『安全地区』内でも殺されるというケースがよくありました。
ただ日本軍も外部からいきなり『安全地区』に攻撃をかけるようなことはしなかった。
市内の他地域での流血にくらべれば、まるでたいしたことはありませんでした。」
ダーティン記者は、南京市内での日本軍による民間人の無差別殺害をも、当時、くわしく報道していた。
「12月15日に南京市内を広範にみてまわった外国人たちは、民間人の死体があちこちにあるのを目撃した。犠牲者のなかには老人や子供もいた。警官や消防夫がとくに攻撃の標的となった」(1937年12月18日付報道)
「興奮や恐怖に駆られて日本軍の近くを突っ走った中国人はすぐに狙撃された。明かに背中から射たれた老人の死体などが、うつ伏せになって歩道によく横たわっていた」(1938年1月9日付報道)
予想されなかった虐殺
―日本軍はやはり民間人をも無差別に殺したのですか。
「はい、無差別の殺害といえます。銃で射つのがもっとも多かった。
銃剣を使う場合もあった。
とにかくウサギを殺すような感じでの虐殺が行われたのです」
ダーティン氏はこうした発言をしながらもとくに表情は変えず、淡々とした口調で語りつづける。
「南京の日本軍兵士は、上層部から略奪や虐殺をしてもよいという通達を受けているような印象を、私は受けました。
『中国人を殺せ』というような命令ではないにせよ、『殺してもかまわない』というような通達です。こうした行動は私には大きなおどろきでした」
これは メッセージ 1 (the_super_aikokusya さん)への返信です.