海軍特別年少兵
投稿者: fukagawatohei 投稿日時: 2009/03/19 13:41 投稿番号: [28235 / 41162]
14歳で兵士になった
−少年兵たちの足跡
海軍特別年少兵
最前線に投入、5000人戦死
特年兵だった東敬八さんは、20年にわたって会報「軍艦シリーズ」を発行してきた。
当時の顔写真と戦歴が特年兵たちの生きた証しだ=西宮市建石町
十四歳で海軍の水測兵となり、七十六歳で亡くなった宮岡知之さんの取材を重ねた。
やがて、海軍には、ほかにも同じような少年兵がいたことが分かってきた。
その一つが「海軍特別年少兵(特年兵)」だ。中堅幹部を養成する目的で、満十四歳以上の少年が集められた。その数は、一九四二年から終戦までの四期で計一万八千人とされる。
戦況が悪化する中、多くが硫黄島や沖縄など第一線に送られ、戦死者は五千人に上った。大々的に募集をかけていなかったこともあり、戦後長い間、その存在は表に出なかった。
元特年兵という男性を訪ねた。西宮市建石町の東敬八さん(78)。「当時は『昭和(生まれ)の兵隊が来た』ってばかにされたもんです。だから、特年兵ということは隠していました。まわりの兵士はみんな明治、大正の生まれでした」
東さんは特年兵二期に当たる。三重県の小学校を卒業後、海軍の軍事工場に就職した。そこで志願を勧められ、広島県の大竹海兵団に入団した。
十カ月の新兵訓練を受けた後、大竹にあった海軍潜水学校に入校。潜水艦を動かす電気系統の技術を学び、練習艦の乗務員になった。
練習鑑での訓練の一つに、「回天(人間魚雷)」の発射訓練があった。特攻要員の多くは一、二歳年上の飛行予科練習生だった。
飛行機が少なくなり、人間魚雷での特攻に回されていた。
東さんは「わずか二カ月の訓練で戦場へ向かった。潜水艦の中では身の上話なんかしません。人と人との付き合いはできませんでした」と振り返った。
戦局の悪化に伴い、練習艦も沖縄戦に投入されることが決まった。
「死を覚悟しました。そして、いざ出発というとき、ラジオから玉音放送が流れたのです」
東さんは戦後、仲間とともに元特年兵の消息を捜し回った。
七三年、神戸で大竹海兵団出身の特年兵の会を設立。八七年からは、毎月の会報に、特年兵が配属された潜水艦や基地を記録した「軍艦シリーズ」の掲載を始めた。
取材のため、海外へ足を運んだこともある。
なぜそこまでするのか。「少年兵は『わけも分からず、軍の手先になった』と言われる。確かに、わけも分からん軍国少年やったけど、国を思って志願したこと。次の時代に私たちの記録を残したい」
会報は現在、三百十六号を数える。今後も発行し続けるつもりだが、「最後の会報だけはもうできているんです」。そう言って、東さんが原稿を取り出した。
戦後、戦利品として戦勝国が引き取った軍艦の話がまとめられていた。乗組員たちの中に、特年兵が多く含まれていたという。
タイトルに「さらば、わが艦よ」とあった。
海軍特別年少兵
最前線に投入、5000人戦死
特年兵だった東敬八さんは、20年にわたって会報「軍艦シリーズ」を発行してきた。
当時の顔写真と戦歴が特年兵たちの生きた証しだ=西宮市建石町
十四歳で海軍の水測兵となり、七十六歳で亡くなった宮岡知之さんの取材を重ねた。
やがて、海軍には、ほかにも同じような少年兵がいたことが分かってきた。
その一つが「海軍特別年少兵(特年兵)」だ。中堅幹部を養成する目的で、満十四歳以上の少年が集められた。その数は、一九四二年から終戦までの四期で計一万八千人とされる。
戦況が悪化する中、多くが硫黄島や沖縄など第一線に送られ、戦死者は五千人に上った。大々的に募集をかけていなかったこともあり、戦後長い間、その存在は表に出なかった。
元特年兵という男性を訪ねた。西宮市建石町の東敬八さん(78)。「当時は『昭和(生まれ)の兵隊が来た』ってばかにされたもんです。だから、特年兵ということは隠していました。まわりの兵士はみんな明治、大正の生まれでした」
東さんは特年兵二期に当たる。三重県の小学校を卒業後、海軍の軍事工場に就職した。そこで志願を勧められ、広島県の大竹海兵団に入団した。
十カ月の新兵訓練を受けた後、大竹にあった海軍潜水学校に入校。潜水艦を動かす電気系統の技術を学び、練習艦の乗務員になった。
練習鑑での訓練の一つに、「回天(人間魚雷)」の発射訓練があった。特攻要員の多くは一、二歳年上の飛行予科練習生だった。
飛行機が少なくなり、人間魚雷での特攻に回されていた。
東さんは「わずか二カ月の訓練で戦場へ向かった。潜水艦の中では身の上話なんかしません。人と人との付き合いはできませんでした」と振り返った。
戦局の悪化に伴い、練習艦も沖縄戦に投入されることが決まった。
「死を覚悟しました。そして、いざ出発というとき、ラジオから玉音放送が流れたのです」
東さんは戦後、仲間とともに元特年兵の消息を捜し回った。
七三年、神戸で大竹海兵団出身の特年兵の会を設立。八七年からは、毎月の会報に、特年兵が配属された潜水艦や基地を記録した「軍艦シリーズ」の掲載を始めた。
取材のため、海外へ足を運んだこともある。
なぜそこまでするのか。「少年兵は『わけも分からず、軍の手先になった』と言われる。確かに、わけも分からん軍国少年やったけど、国を思って志願したこと。次の時代に私たちの記録を残したい」
会報は現在、三百十六号を数える。今後も発行し続けるつもりだが、「最後の会報だけはもうできているんです」。そう言って、東さんが原稿を取り出した。
戦後、戦利品として戦勝国が引き取った軍艦の話がまとめられていた。乗組員たちの中に、特年兵が多く含まれていたという。
タイトルに「さらば、わが艦よ」とあった。
これは メッセージ 28234 (unhoo さん)への返信です.