北朝鮮よりおそまつでしょうー風船爆弾
投稿者: fukagawatohei 投稿日時: 2009/03/10 17:02 投稿番号: [27912 / 41162]
(風船爆弾による米本土攻撃研究と実施)
気球を等高度飛行させて遠隔地を攻撃することは関東軍が満州国の東部からソ連のウラジオストックの軍事基地を攻撃する手段として一九三三年当時から研究整備していた。しかしその当時の気球爆弾は到達距離が約一〇〇km程度のもので、飛行時間が短く、長距離攻撃に使用できるものではなかった。
■ 決戦兵器、風船爆弾 ■
日本海軍がミッドウェー海戦に敗れて以降、一九四四年一〇月二四日、海軍最後の秘蔵艦「武蔵」がフィリピン沖で撃沈され、翌二五日、神風特攻隊による米艦への体当たり作戦が決行され、戦局は重大局面を迎えていた。この戦局を転換するために大本営は体当たり攻撃命令を出し、これと同じ日に、八〇〇〇kmの太平洋を超える米本土攻撃の「決戦兵器」として、「風船爆弾による攻撃作戦の準備」を発令した。この風船爆弾の秘匿名を「ふ」号兵器と呼称した。登戸研究所ではこの作戦を事前に予想し、草葉少将を総責任者として武田照彦少佐、大槻俊郎少佐、高野泰秋少佐等により研究を進めていた。使用する気球の球皮は良質の和紙を三〜四重に重ね、コンニャク糊で貼り合わせ(海軍はゴムを使用)て作った。当初はこの気球に爆弾等を搭載し、米国東部海岸一〇〇〇km近くまで潜水艦で運び攻撃する戦術を試みたが、戦況の悪化で潜水艦不足となり、やむをえず日本本土(茨城県大津・千葉県一宮・福島県勿来海岸)から米国大陸に向け直接放球攻撃を行うことになったのである。
風船爆弾を八〇〇〇km彼方の米国大陸まで運ぶということは、一万m以上の上空の偏西風に気球を乗せ、気温零下五〇度以下、気圧四分の一という低温・低気圧に耐え、さらに約五〇時間の連続飛行を確保する事が必要であった。超高度のため太陽の直射による昼夜の気球内ガス温度が三〇度前後も較差が有り、さらに気球を平行飛行させるための高度維持機能を持たせねばならなかった。
一九四四年二月〜三月、陸軍省、参謀本部等の関係者の立ち会いで、直径一〇mの気球二〇〇個を準備し、当時「無線の高野」と世評の高かった高野泰秋技術少佐が開発した「A1型ゾンデ」と一五kg爆弾及び焼夷弾を搭載させ、実験を繰り返し実用試験を完了、いよいよ四四年末から「ふ」号作戦の実行が決定された。登戸研究所が主体となり、関係機関の協力を得て八月までに研究を終え、一〇月整備完了。一一月初旬より攻撃開始することになった。
■ 米本土の攻撃開始 ■
四四年九月三〇日付参謀総長命令、「気球連隊は一〇月末までに所定の陣地を確保し攻撃準備を完了すること」、一〇月二五日付「米国内部撹乱の目的を持って米国本土に対する特殊攻撃の準備をすること」「攻撃(放球)開始は一一月一日、投下物は焼夷弾一五kg、爆弾約七五〇〇個、五kg焼夷弾約三万個、一二kg焼夷弾約七五〇〇個、放球数約一万五〇〇〇個とする。今次特殊攻撃を『ふ』号作戦と呼称する…」が発令された。実際の攻撃は一一月三日(明治節)午前五時、勿来・大津・一ノ宮海岸より一斉に開始され、翌年四月上旬までに約九〇〇〇個の放球攻撃が行われ、そのうち約一〇〇〇個以上の風船爆弾がアラスカ・カナダ・アメリカ本土からメキシコの広範な地域に到達し、米国軍を驚嘆させた。当時の状況について米国西海岸防衛参謀総長ウイルバー大将は戦後、リーダース・ダイジェスト誌に、「これら得体の知れない気球には、間違いなく化学兵器か細菌戦の媒体が使われていると推察、防毒資材や殺菌剤が各要所に集積された。また、アメリカ合衆国の最高命令で、『日本からの気球兵器到達に関して絶対に情報を漏洩させるべからず』との厳重な報道管制が敷かれた」と述べている。実際登戸研究所内でも気球に搭載する細菌を研究準備し、投下訓練も行っていたが、使用せずに攻撃は終了した。
登戸研究所が開発した風船爆弾が、当時世界が予想だにしなかった八〇〇〇kmにも及ぶ宇宙空間を自動制御の無人気球とともに越えたことは、米国軍に大きな心理的打撃を与えることは出来たが、「決戦兵器」と言われる程の効果を発揮することは出来なかった。
気球を等高度飛行させて遠隔地を攻撃することは関東軍が満州国の東部からソ連のウラジオストックの軍事基地を攻撃する手段として一九三三年当時から研究整備していた。しかしその当時の気球爆弾は到達距離が約一〇〇km程度のもので、飛行時間が短く、長距離攻撃に使用できるものではなかった。
■ 決戦兵器、風船爆弾 ■
日本海軍がミッドウェー海戦に敗れて以降、一九四四年一〇月二四日、海軍最後の秘蔵艦「武蔵」がフィリピン沖で撃沈され、翌二五日、神風特攻隊による米艦への体当たり作戦が決行され、戦局は重大局面を迎えていた。この戦局を転換するために大本営は体当たり攻撃命令を出し、これと同じ日に、八〇〇〇kmの太平洋を超える米本土攻撃の「決戦兵器」として、「風船爆弾による攻撃作戦の準備」を発令した。この風船爆弾の秘匿名を「ふ」号兵器と呼称した。登戸研究所ではこの作戦を事前に予想し、草葉少将を総責任者として武田照彦少佐、大槻俊郎少佐、高野泰秋少佐等により研究を進めていた。使用する気球の球皮は良質の和紙を三〜四重に重ね、コンニャク糊で貼り合わせ(海軍はゴムを使用)て作った。当初はこの気球に爆弾等を搭載し、米国東部海岸一〇〇〇km近くまで潜水艦で運び攻撃する戦術を試みたが、戦況の悪化で潜水艦不足となり、やむをえず日本本土(茨城県大津・千葉県一宮・福島県勿来海岸)から米国大陸に向け直接放球攻撃を行うことになったのである。
風船爆弾を八〇〇〇km彼方の米国大陸まで運ぶということは、一万m以上の上空の偏西風に気球を乗せ、気温零下五〇度以下、気圧四分の一という低温・低気圧に耐え、さらに約五〇時間の連続飛行を確保する事が必要であった。超高度のため太陽の直射による昼夜の気球内ガス温度が三〇度前後も較差が有り、さらに気球を平行飛行させるための高度維持機能を持たせねばならなかった。
一九四四年二月〜三月、陸軍省、参謀本部等の関係者の立ち会いで、直径一〇mの気球二〇〇個を準備し、当時「無線の高野」と世評の高かった高野泰秋技術少佐が開発した「A1型ゾンデ」と一五kg爆弾及び焼夷弾を搭載させ、実験を繰り返し実用試験を完了、いよいよ四四年末から「ふ」号作戦の実行が決定された。登戸研究所が主体となり、関係機関の協力を得て八月までに研究を終え、一〇月整備完了。一一月初旬より攻撃開始することになった。
■ 米本土の攻撃開始 ■
四四年九月三〇日付参謀総長命令、「気球連隊は一〇月末までに所定の陣地を確保し攻撃準備を完了すること」、一〇月二五日付「米国内部撹乱の目的を持って米国本土に対する特殊攻撃の準備をすること」「攻撃(放球)開始は一一月一日、投下物は焼夷弾一五kg、爆弾約七五〇〇個、五kg焼夷弾約三万個、一二kg焼夷弾約七五〇〇個、放球数約一万五〇〇〇個とする。今次特殊攻撃を『ふ』号作戦と呼称する…」が発令された。実際の攻撃は一一月三日(明治節)午前五時、勿来・大津・一ノ宮海岸より一斉に開始され、翌年四月上旬までに約九〇〇〇個の放球攻撃が行われ、そのうち約一〇〇〇個以上の風船爆弾がアラスカ・カナダ・アメリカ本土からメキシコの広範な地域に到達し、米国軍を驚嘆させた。当時の状況について米国西海岸防衛参謀総長ウイルバー大将は戦後、リーダース・ダイジェスト誌に、「これら得体の知れない気球には、間違いなく化学兵器か細菌戦の媒体が使われていると推察、防毒資材や殺菌剤が各要所に集積された。また、アメリカ合衆国の最高命令で、『日本からの気球兵器到達に関して絶対に情報を漏洩させるべからず』との厳重な報道管制が敷かれた」と述べている。実際登戸研究所内でも気球に搭載する細菌を研究準備し、投下訓練も行っていたが、使用せずに攻撃は終了した。
登戸研究所が開発した風船爆弾が、当時世界が予想だにしなかった八〇〇〇kmにも及ぶ宇宙空間を自動制御の無人気球とともに越えたことは、米国軍に大きな心理的打撃を与えることは出来たが、「決戦兵器」と言われる程の効果を発揮することは出来なかった。
これは メッセージ 1 (the_super_aikokusya さん)への返信です.