Re: 国民党軍に売られた日本兵
投稿者: fukagawatohei 投稿日時: 2009/02/05 21:54 投稿番号: [27386 / 41162]
>>古本屋さん御得意の裁判記録を調べたらどないでっか。
>↑矢張り知らないようだね、ガセネタだからね。
>唐変木の唐変木たる所以。
これ結構有名ですよ:
↓
- quote -
北支那派遣軍第一軍、総兵力5万9千人。その司令官、澄田らい四郎中将(「らい」は貝へんに來)は、日本のポツダム宣言受諾を受けて、閻錫山の率いる国民党山西軍に降伏した。
閻錫山の山西軍は、表向きは国民党の一部であるが、事実上山西省の軍閥である。戦時中、日本軍は、彼を取り込んで抗日運動を弱めようと考えて接触していた。
閻錫山の方は、降伏した日本軍を八路軍との内戦に協力させようとした。A級戦犯の容疑がかけられていた澄田中将は閻錫山の要求を受け入れ、彼の顧問となり、ポツダム宣言に違反して第一軍の一部残留を画策する。
残留工作は、いったんは発覚して表向き中止させられるが、秘密裏に続けられた。結局約2,600人の将兵たちが軍命によって残留させられ、その後4年間も八路軍(共産党人民解放軍)と戦い続けたのである。
残留兵士たちには、共産軍と戦い中国の発展に貢献することで、祖国復興の礎石となるのだと説明された。この残留日本軍は、1949年4月の太原の戦いで敗北して人民解放軍に投降するまで、熾烈な闘いを繰り返し、約550人が戦死した。
捕虜となり抑留生活を送った元日本軍兵士たちの大半は、1953〜54年にようやく帰国できたが、彼らは、現地除隊し自らの意志で望んで残留したことにされていた。したがって、軍籍も抹消されていて恩給や補償の対象外とされた。
戦犯に問われることがなくなった時点で部下を見捨てて逃げ帰った司令官
残留日本軍は、表向きは国民党軍の一部に編入された形になっていたが、独自の軍隊として行動し、国共内戦の最終段階まで八路軍(人民解放軍)と死闘を繰りひろげた。
1949年4月の太原の戦いで敗北してついに投降したが、その最後の決戦を前にして、最高指令官の澄田中将は閻錫山の手引きで、もはや戦犯の追及がほとんど終わろうとしていた日本へ逃げ帰った。
1956年に「第25回特別国会衆議院海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会」で、澄田元第一軍司令官と山岡元参謀長が証言した。それは、自分たちが命令を出して残留させた将兵たちを愚弄するものであった。
澄田は、全員帰還の方針を堅持しあらゆる努力をしたつもりであると述べ、山岡は、残留兵たちは規律に従わず勝手に残留したのだと述べたのである。
この委員会では、下級将校たちも証言し、残留が軍の命令であったと口々に証言したが、政府は最高位2人の証言を支持し、下級将校たちの証言を黙殺した。
90年代に入って、ようやく人生の終わりを見据えるような年齢に達した元残留兵士たちが、連絡を取り合って結束して再び運動を開始した。国会への請願や政府への陳情などを行ないながら、執念で事実資料をつきとめ収集していった。
小泉厚生相(当時)に陳情に行ったとき異議申立書を出すよう勧められて、約100人が異議申し立てを行なったが却下された。それで、2001年に訴訟に踏み切った。
裁判は、具体的な要求をしなければならないことから、軍人恩給の支給を求めるという形がとられた。軍人恩給を支給させるためには、残留後も軍籍があったことを認めさせなければならない。
国側は、軍籍を認めるということは、終戦後も日本軍が中国で戦闘していたという事実を認めることになる。国側は、それは絶対に認めない。元兵士たちは、真実が明らかになれば必ず自分たちの主張が認められると信じていたと思われる。
だが、裁判闘争では、この壁を突き崩すことはできなかった。
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>↑矢張り知らないようだね、ガセネタだからね。
>唐変木の唐変木たる所以。
これ結構有名ですよ:
↓
- quote -
北支那派遣軍第一軍、総兵力5万9千人。その司令官、澄田らい四郎中将(「らい」は貝へんに來)は、日本のポツダム宣言受諾を受けて、閻錫山の率いる国民党山西軍に降伏した。
閻錫山の山西軍は、表向きは国民党の一部であるが、事実上山西省の軍閥である。戦時中、日本軍は、彼を取り込んで抗日運動を弱めようと考えて接触していた。
閻錫山の方は、降伏した日本軍を八路軍との内戦に協力させようとした。A級戦犯の容疑がかけられていた澄田中将は閻錫山の要求を受け入れ、彼の顧問となり、ポツダム宣言に違反して第一軍の一部残留を画策する。
残留工作は、いったんは発覚して表向き中止させられるが、秘密裏に続けられた。結局約2,600人の将兵たちが軍命によって残留させられ、その後4年間も八路軍(共産党人民解放軍)と戦い続けたのである。
残留兵士たちには、共産軍と戦い中国の発展に貢献することで、祖国復興の礎石となるのだと説明された。この残留日本軍は、1949年4月の太原の戦いで敗北して人民解放軍に投降するまで、熾烈な闘いを繰り返し、約550人が戦死した。
捕虜となり抑留生活を送った元日本軍兵士たちの大半は、1953〜54年にようやく帰国できたが、彼らは、現地除隊し自らの意志で望んで残留したことにされていた。したがって、軍籍も抹消されていて恩給や補償の対象外とされた。
戦犯に問われることがなくなった時点で部下を見捨てて逃げ帰った司令官
残留日本軍は、表向きは国民党軍の一部に編入された形になっていたが、独自の軍隊として行動し、国共内戦の最終段階まで八路軍(人民解放軍)と死闘を繰りひろげた。
1949年4月の太原の戦いで敗北してついに投降したが、その最後の決戦を前にして、最高指令官の澄田中将は閻錫山の手引きで、もはや戦犯の追及がほとんど終わろうとしていた日本へ逃げ帰った。
1956年に「第25回特別国会衆議院海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会」で、澄田元第一軍司令官と山岡元参謀長が証言した。それは、自分たちが命令を出して残留させた将兵たちを愚弄するものであった。
澄田は、全員帰還の方針を堅持しあらゆる努力をしたつもりであると述べ、山岡は、残留兵たちは規律に従わず勝手に残留したのだと述べたのである。
この委員会では、下級将校たちも証言し、残留が軍の命令であったと口々に証言したが、政府は最高位2人の証言を支持し、下級将校たちの証言を黙殺した。
90年代に入って、ようやく人生の終わりを見据えるような年齢に達した元残留兵士たちが、連絡を取り合って結束して再び運動を開始した。国会への請願や政府への陳情などを行ないながら、執念で事実資料をつきとめ収集していった。
小泉厚生相(当時)に陳情に行ったとき異議申立書を出すよう勧められて、約100人が異議申し立てを行なったが却下された。それで、2001年に訴訟に踏み切った。
裁判は、具体的な要求をしなければならないことから、軍人恩給の支給を求めるという形がとられた。軍人恩給を支給させるためには、残留後も軍籍があったことを認めさせなければならない。
国側は、軍籍を認めるということは、終戦後も日本軍が中国で戦闘していたという事実を認めることになる。国側は、それは絶対に認めない。元兵士たちは、真実が明らかになれば必ず自分たちの主張が認められると信じていたと思われる。
だが、裁判闘争では、この壁を突き崩すことはできなかった。
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これは メッセージ 27383 (nyankotyanndamon さん)への返信です.