Re: 何処までも負け犬koudousuruへ
投稿者: fukagawatohei 投稿日時: 2008/09/17 10:20 投稿番号: [26050 / 41162]
>おりょおりょ、誰が百人斬りの刀のことを書いた、ボケナス
(笑>
日本刀の件は百人斬りの話の中から出てきた事だろ〜が。
オマイは素人のくせに日本刀の使い方の能書きをたれていたな。
日本軍が日本刀に関する資料など作るわけがないだろ〜が。
これが、日本軍が作った資料か。
↓
鵜野晋太郎氏は、旧陸軍第39師団232連隊第2大隊情報将校として自ら40名以上もの中国人を、主に日本刀(「備州長船祐定」および昭和新刀「助川貞光」)を用いて虐殺した体験者であり、中華人民共和国における戦犯裁判において、大尉以下の800名の中ではただ一人重刑判決を受けた。
告白手記『日本刀怨恨譜』
「私は常用の貞光を引き抜くと、一息入れてくるりと剣背(嶺、つまり刀の刃の背)を軽く村長の首に当て、間合いを見て足の位置を定め、今度は刃部を前に戻し乍ら一気に振り下ろした。
〝ドスッ〟と鈍い手応えと同時に、噴水の如く二、三本と吹き出す血。村長の首は胴体より僅かに早く落ち、顔は苦悶に歪み、歯はガチガチと砂を噛んだ。凄愴、無残。ただよう血の匂い。 ……つづいて私は次の四十がらみの村幹部の後方に廻った。
(先ずはうまくいったが、目釘はどうかな。刀の曲りは出たかな?)
目釘は異常ないが、刀身はわずかに曲りが出たようだ。
(大丈夫だ。連続してどこまでいけるか、やるんだ)
次の首に剣背を当てるや、返して振り下ろす。そして三人、四人目へと息もつかせず斬った。だが四人目は八分通りの斬れ方で首は胸に垂れて倒れた。
(失敗だ!落ち着け!)
私は強いて笑顔を試みたが、泣き面になってしまった。」
昭和十二年十一月 ― 十二月の日本の新聞は、連日南京へ進撃する皇軍のニュースで埋まっていた。
とりわけ私の関心は、野田・向井両少尉の百人斬り競争であった。今日は何人目と報ぜられる記事は何者にもまして素晴らしく、一八歳の私の胸は皇国の無敵ぶりへの確信を一段と高めたものである。
当時私は幼稚な「天下無敵大和魂武勇伝」を盲信していたので、百人斬りはすべて「壮烈鬼神も避く肉弾戦」(当時の従軍記者の好きなタイトルである)で斬ったものと思っていたが、前述の私の体験的確信から類推して、別の意味でこれは可能なことだ――と言うよりもむしろ容易なことであったに違いない。
しかもいわゆる警備地区での斬首殺害の場合、穴を掘り埋没しても野犬が食いあさると言う面倒があるが、進撃中の作戦地区ではまさに「斬り捨てご免」で、立ち小便勝手放題にも似た「気まま(イ盡)な殺人」を両少尉が「満喫」したであろうことは容易に首肯ける。
ただ注意すべきは目釘と刀身の曲りだが、それもそう大したことではなかったのだろう。また百人斬りの「話題の主」とあっては、進撃途上で比隣部隊から「どうぞ、どうぞ」と捕虜の提供を存分に受けたことも類推できようと言うものだ。
要するに「据え物百人斬り競争」が正式名称になるべきである。尚彼等のどちらかが凱旋後故郷で講演した中に「戦闘中に斬ったのは三人で他は捕えたのを斬った云々」とあることからもはっきりしている。その戦闘中の三人も本当に白兵で斬ったのか真偽のほどはきわめて疑わしくなる。
何れにせよ、こんなにはっきりしていることを「ああでもない、こうでもない」と言うこと自体馬鹿げた話だ。
私を含めて何百何千もの野田・向井がいて、それは日中50年戦争――とりわけ「支那事変」の時点での〝無敵皇軍〟の極めてありふれた現象に過ぎなかったのである。 」
日本刀の件は百人斬りの話の中から出てきた事だろ〜が。
オマイは素人のくせに日本刀の使い方の能書きをたれていたな。
日本軍が日本刀に関する資料など作るわけがないだろ〜が。
これが、日本軍が作った資料か。
↓
鵜野晋太郎氏は、旧陸軍第39師団232連隊第2大隊情報将校として自ら40名以上もの中国人を、主に日本刀(「備州長船祐定」および昭和新刀「助川貞光」)を用いて虐殺した体験者であり、中華人民共和国における戦犯裁判において、大尉以下の800名の中ではただ一人重刑判決を受けた。
告白手記『日本刀怨恨譜』
「私は常用の貞光を引き抜くと、一息入れてくるりと剣背(嶺、つまり刀の刃の背)を軽く村長の首に当て、間合いを見て足の位置を定め、今度は刃部を前に戻し乍ら一気に振り下ろした。
〝ドスッ〟と鈍い手応えと同時に、噴水の如く二、三本と吹き出す血。村長の首は胴体より僅かに早く落ち、顔は苦悶に歪み、歯はガチガチと砂を噛んだ。凄愴、無残。ただよう血の匂い。 ……つづいて私は次の四十がらみの村幹部の後方に廻った。
(先ずはうまくいったが、目釘はどうかな。刀の曲りは出たかな?)
目釘は異常ないが、刀身はわずかに曲りが出たようだ。
(大丈夫だ。連続してどこまでいけるか、やるんだ)
次の首に剣背を当てるや、返して振り下ろす。そして三人、四人目へと息もつかせず斬った。だが四人目は八分通りの斬れ方で首は胸に垂れて倒れた。
(失敗だ!落ち着け!)
私は強いて笑顔を試みたが、泣き面になってしまった。」
昭和十二年十一月 ― 十二月の日本の新聞は、連日南京へ進撃する皇軍のニュースで埋まっていた。
とりわけ私の関心は、野田・向井両少尉の百人斬り競争であった。今日は何人目と報ぜられる記事は何者にもまして素晴らしく、一八歳の私の胸は皇国の無敵ぶりへの確信を一段と高めたものである。
当時私は幼稚な「天下無敵大和魂武勇伝」を盲信していたので、百人斬りはすべて「壮烈鬼神も避く肉弾戦」(当時の従軍記者の好きなタイトルである)で斬ったものと思っていたが、前述の私の体験的確信から類推して、別の意味でこれは可能なことだ――と言うよりもむしろ容易なことであったに違いない。
しかもいわゆる警備地区での斬首殺害の場合、穴を掘り埋没しても野犬が食いあさると言う面倒があるが、進撃中の作戦地区ではまさに「斬り捨てご免」で、立ち小便勝手放題にも似た「気まま(イ盡)な殺人」を両少尉が「満喫」したであろうことは容易に首肯ける。
ただ注意すべきは目釘と刀身の曲りだが、それもそう大したことではなかったのだろう。また百人斬りの「話題の主」とあっては、進撃途上で比隣部隊から「どうぞ、どうぞ」と捕虜の提供を存分に受けたことも類推できようと言うものだ。
要するに「据え物百人斬り競争」が正式名称になるべきである。尚彼等のどちらかが凱旋後故郷で講演した中に「戦闘中に斬ったのは三人で他は捕えたのを斬った云々」とあることからもはっきりしている。その戦闘中の三人も本当に白兵で斬ったのか真偽のほどはきわめて疑わしくなる。
何れにせよ、こんなにはっきりしていることを「ああでもない、こうでもない」と言うこと自体馬鹿げた話だ。
私を含めて何百何千もの野田・向井がいて、それは日中50年戦争――とりわけ「支那事変」の時点での〝無敵皇軍〟の極めてありふれた現象に過ぎなかったのである。 」
これは メッセージ 26048 (koudousuru009 さん)への返信です.