Re: koudousuruのアンポンタンへ
投稿者: fukagawatohei 投稿日時: 2008/07/08 08:32 投稿番号: [24468 / 41162]
>結核が持病の人間が”召集”された事例を示せ!>
おまいは本当に世間知らずだな〜。
だから、結核を患っていた日本兵はたくさんいたと言ってんだろ〜が。
おいらの親父が召集されたときに結核だった事を自覚していたかどうかは
わからないが、終戦まぎわには、兵隊が足りずに動ける男は根こそぎ
召集されたんだよ。
(google参照):
- quote -
●私の戦争時代の体験─平和への願い●
第2回放送分/2005年8月11日/
テーマ=私の戦争時代の体験(2)
パーソナリティー=村上 祐子
ゲスト=日置辰一朗(へき しんいちろう)/呼吸器科医
〜京都医療ウォッチング、このコーナーは京都府保険医協会がお送りします〜
■ホッとした終戦の日
村上:医療の問題をじっくり考えていくこのコーナー、今月は「私の戦争時代の体験」をテーマにお話を伺います。今日は呼吸器科医師の日置辰一朗さんにお越しいただきました。日置さんよろしくお願いします。
日置:よろしくお願いします。
村上:さて、今年は太平洋戦争の終戦60周年にあたりますが、終戦の頃、先生はどこで何をされていたのですか?
日置:私は当時、島根県の松江にありました「傷痍軍人島根療養所」という大きな結核療養所で医師として働いていました。この療養所は「広島陸軍病院分院」も兼ねていましたので、その仕事もしていました。当時は日本中に結核患者が非常に多く、死亡者も多く、国もその対策として始めての国立病院として全国に20カ所位作った病院群の一つでした。
村上:その頃印象に残ったことがありますか。
日置:印象に残るのは、やはり死亡していった若い兵隊の患者さんたちのことです。それは、南方から後送され、広島の宇品(うじな)に帰還して、松江に送られてきたばかりのマラリアを合併していた結核患者さんたちで、3日毎とか毎日とかにガタガタ震えて高熱を出し、痩せ衰えて、何人も死んでいったことは忘れられません。
村上:終戦の日のことを覚えておられると思いますが、その日は何をされていましたか。
日置:終戦の8月15日は、広島に原爆投下のあった1週間余り後で、軍病院の責任者の少佐が広島に連絡に行き、帰ってきて、医局で見てきた原爆の話を私に色々と話してくれました。
ひどい被害で、大変暗い気持ちでいました。その日には「玉音放送」があると言う通知が予めあって、講堂で聞きましたが、実際にはガーガーという雑音でほとんど判りませんでした。しかし、すぐに電報や県庁からの連絡などで日本の敗戦を知りました。
翌日、動ける軍の全患者約200人を講堂に集め、軍病院の責任者である少佐は、「日本は負けた。軍は解散した」「君等はもう軍人ではない。自由に帰宅せよ」「威張ってはいけない。小さくなって帰れ」などと訓示して、毛布や食料などを分配し、給料を与えて軍病院は解散しました。
その時流石に日本の軍隊と思ったのですが、混乱もなく、整然と粛々帰って行きました。しかし、勿論動けない患者や傷痍軍人療養所の慢性の患者何百人かは残りました。
村上:終戦を迎えてどんなことを思われましたか。
日置:終戦と共に空襲警報も鳴らず、燈火管制もなくなり、町が明るくなり、気分も明るくなりました。もう原爆も空襲もなく、やっと「戦争は終った」「平和が来た」と感じました。本当にホッとした気持ちでした。」
- unquote -
おまいは本当に世間知らずだな〜。
だから、結核を患っていた日本兵はたくさんいたと言ってんだろ〜が。
おいらの親父が召集されたときに結核だった事を自覚していたかどうかは
わからないが、終戦まぎわには、兵隊が足りずに動ける男は根こそぎ
召集されたんだよ。
(google参照):
- quote -
●私の戦争時代の体験─平和への願い●
第2回放送分/2005年8月11日/
テーマ=私の戦争時代の体験(2)
パーソナリティー=村上 祐子
ゲスト=日置辰一朗(へき しんいちろう)/呼吸器科医
〜京都医療ウォッチング、このコーナーは京都府保険医協会がお送りします〜
■ホッとした終戦の日
村上:医療の問題をじっくり考えていくこのコーナー、今月は「私の戦争時代の体験」をテーマにお話を伺います。今日は呼吸器科医師の日置辰一朗さんにお越しいただきました。日置さんよろしくお願いします。
日置:よろしくお願いします。
村上:さて、今年は太平洋戦争の終戦60周年にあたりますが、終戦の頃、先生はどこで何をされていたのですか?
日置:私は当時、島根県の松江にありました「傷痍軍人島根療養所」という大きな結核療養所で医師として働いていました。この療養所は「広島陸軍病院分院」も兼ねていましたので、その仕事もしていました。当時は日本中に結核患者が非常に多く、死亡者も多く、国もその対策として始めての国立病院として全国に20カ所位作った病院群の一つでした。
村上:その頃印象に残ったことがありますか。
日置:印象に残るのは、やはり死亡していった若い兵隊の患者さんたちのことです。それは、南方から後送され、広島の宇品(うじな)に帰還して、松江に送られてきたばかりのマラリアを合併していた結核患者さんたちで、3日毎とか毎日とかにガタガタ震えて高熱を出し、痩せ衰えて、何人も死んでいったことは忘れられません。
村上:終戦の日のことを覚えておられると思いますが、その日は何をされていましたか。
日置:終戦の8月15日は、広島に原爆投下のあった1週間余り後で、軍病院の責任者の少佐が広島に連絡に行き、帰ってきて、医局で見てきた原爆の話を私に色々と話してくれました。
ひどい被害で、大変暗い気持ちでいました。その日には「玉音放送」があると言う通知が予めあって、講堂で聞きましたが、実際にはガーガーという雑音でほとんど判りませんでした。しかし、すぐに電報や県庁からの連絡などで日本の敗戦を知りました。
翌日、動ける軍の全患者約200人を講堂に集め、軍病院の責任者である少佐は、「日本は負けた。軍は解散した」「君等はもう軍人ではない。自由に帰宅せよ」「威張ってはいけない。小さくなって帰れ」などと訓示して、毛布や食料などを分配し、給料を与えて軍病院は解散しました。
その時流石に日本の軍隊と思ったのですが、混乱もなく、整然と粛々帰って行きました。しかし、勿論動けない患者や傷痍軍人療養所の慢性の患者何百人かは残りました。
村上:終戦を迎えてどんなことを思われましたか。
日置:終戦と共に空襲警報も鳴らず、燈火管制もなくなり、町が明るくなり、気分も明るくなりました。もう原爆も空襲もなく、やっと「戦争は終った」「平和が来た」と感じました。本当にホッとした気持ちでした。」
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これは メッセージ 24463 (koudousuru009 さん)への返信です.