Re: koudousuruのアンポンタンへ
投稿者: fukagawatohei 投稿日時: 2008/07/07 23:18 投稿番号: [24458 / 41162]
>お前んがたのおとっつあんは、結核が持病だけんじょも、
徴兵におうたそうじゃのう。はあ、そりゃあまあ、うそだア!
じぇったいに、うそだあア!>
結核だった日本兵はたくさんいるんだけどね〜、マヌケで単純な
奴は知らんだろ〜が。
(google参照):
-quote-
私が従軍看護婦になった昭和19年は、戦争一色でした。家には7人兄弟がおり、弟2人が幼く、他は女だったので「お宅は誰かご奉公しているのですか?」と言われるたび、父は「家は女ばかりで役立たずです」と肩身が狭そうでした。それが悔しくて、日赤が看護婦を募集したとき志願したのです。
3カ月間、ガスマスクをつけ担架で患者を運ぶ訓練や、毒ガスの知識など戦時救護の教育を受け、4月に家に戻り、7月に召集令状が来ました。兵隊と同じ赤紙です。母は「なぜ女の子までが戦地に行くのか」と泣きました。
香川からは看護婦20人と婦長1人が、満州・延吉(えんきつ)の陸軍病院に赴任しました。朝鮮民族が多い町で、日本人は敬遠されていました。私たちが1年に1回だけ許可され、町に出るときは、現地の人は私たちを避けて家の中に入ってしまいました。兵士はよく外出し、行き先は慰安所だったそうです。
結核で死を待つだけの兵士
最初は、軽症の結核患者を担当しました。温湿布用に、毎日大きな軍用バケツでお湯を運びました。長い廊下で上官や婦長に会うたび立ち止まり敬礼していたら、お湯が冷めて兵隊に怒られ、また暖め直しに行く。
でも、敬礼をしなければ婦長から叱(しか)られたものです。重症の結核病室を担当したときは、血や膿(うみ)の混じる痰がいっぱいの痰つぼを素手で洗いました。患者は死ぬのを待つだけでかわいそうでした。食事介助や排便の世話など全部しました。手術室勤務も半年経験しました。
翌年の8月、ソ連軍が来るとの情報が入り、講堂に集められ、直立不動で天皇のラジオ放送を聞き、日本の無条件降伏を知りました。ある日、婦長が赤い薬包紙の青酸カリを配り、「いざとなったら、これで死ぬんですよ」と。私は腹が立って、「死んでたまるか。絶対に生きて帰ろう」と決心しました。
津村(つむら)
ナミエさん(看護師)
1922年、香川県生まれ。1944年、日赤従軍看護婦として延吉(えんきつ)陸軍病院に赴任。敗戦後、ソ連軍捕虜、中国抑留を経て1958年に帰国。1982年まで看護婦として地域の病院に勤務。「日赤9条の会」および「入間9条の会」の呼びかけ人の一人。
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これは メッセージ 24445 (koudousuru009 さん)への返信です.
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