Re: 支那が埋めた化学兵器(毒ガス弾)???
投稿者: deliciousicecoffee 投稿日時: 2008/06/25 00:48 投稿番号: [24169 / 41162]
>金払うから、、組事務所まで
取りに来てくれって
行ったら
若いあほゲナ組員に
脅されて
それでも頑張ってたら
数人に囲まれて
おいだされちゃう
ほんで
当の本人は金もって
払おうと思ったけど
帰っちゃったって
云うんだよな、、実に日本的?あ〜〜日本軍的
脅しなんだね。
オマエの妄想じゃ話にならん。
もはや時間の無駄。
>中国人を何人殺したんだ?
支那軍による虐殺11・苛酷な徴発、略奪、徴兵等【支那軍と支那人民の殺し合い】
http://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/11717562.html
(一部抜粋)
―――――――
私はうけ合ってもいい、抗戦八年のあいだにこうしてふみにじられた同胞、いわゆる壮丁から弱丁になり、弱丁から病丁になり、病丁から死丁になって行った同胞の数は、戦死したもの、日本軍に殺されたものにくらべて、最低百倍は超えているに違いない。
『抗日戦回想録』郭沫若自伝
―――――――
―――――――
一般住民に対して、徴発と略奪があまりしばしば行われたので、農民は日本軍(1)よりも彼等自身の軍隊(2)をさらに一層憎んだ。穀物を略奪されまいとして抵抗する農民を飢えた中国兵が殺したり、日本軍の進撃を免れるために逃亡兵が村民を殺し、その衣類を自分が着こんで変装するということも起こった(3)。日本軍の進撃を鈍らせて鄭州の町を守るために、政府は1938年に黄河の堰を開いた。すると、黄河は1世紀近く前から打ち捨てられたままになっていた古い河道を再び流れた。「思い切った」決定であったが、このために、河南省東部の数十万の農民が命を失った。彼等は水に溺れ、或は飢えて死んだのである。
(1)日本軍は食べ物が良かったので、中国兵ほどには盗みをする必要がなかった。
(2)この表現が不適当であることはいうまでもない。彼等はこの軍隊を決して自分たちの軍隊とは考えなかった。日本軍の兵士も国民党の兵士も、外からやってきた同じ禍であるのに変わりはなかった。
(3)例えば、1941年の春に、河南省と山西省の省境の山岳地帯で起こった。
軍隊の行動や戦争のやり方からだけでも、農民がどのような反応を示したかは想像に難くない。彼等は自らを守って生き延びようと努力したのである。彼等は国府軍の徴発する米に砂を混ぜ、白痴や片輪者を徴募兵として送り出し(1)、敵軍がその必要とする軍用道路の工事に働く苦力に高い賃金を払うとなると、たちまち大挙して日本占領地帯に移住した。時には、彼等は隊を組んで国府軍の敗残兵を襲撃し、団結して徴募係の役人どもを虐殺した。河南省では、当局の無関心、無能力、穀物のトン積、さらには投機のために、1942年から43年にかけて起こった飢饉(2)が大いに悪化したので、日本人が1944年にこの省に再び(3)侵入した時、彼らにとっては事はことのほかに容易だった。彼らが前進してくるにつれて、農民は国民党の軍隊を襲撃し、武装解除し、時にはこれにリンチを加えたのである。
(1)長々と述べるよりは、農民層の徴兵に対する態度を一層よく説明するような挿話をもう1つ紹介しよう。これは外敵の侵略による農民ナショナリズムの誕生を分析しようとする場合に、無視できないような生の事実の1つである。河南省の鞏県に住む或る貧農の夫婦は炭鉱の坑夫をしている1人息子の賃銀のおかげで漸く暮らしていた。年の頃は40歳前後のこの夫婦に突然2人目の息子ができたときに、徴募係の役人どもがやって来て、長男は軍隊に入らなければならないと夫婦に告げた。法規によれば、1軒の家で息子1人だけが徴兵を免除されることになっているからというのである。妻はもしその息子がいなくなれば、自分たちは飢え死にすると説明して、嘆願した。だが土地の役人たちは耳を傾けようとしなかった。すると、彼女は家に帰って、赤ん坊を地べたに続けざまに打ちつけて死なせてしまった。
(2)未確認の数字であるが、この飢饉のために凡そ200万の死者を出したといわれる。
(3)戦争の初期に、彼等は1度ここを占領したことがある。
『中国革命の起源1915−1945』ルシアン・ビアンコ著
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オマエの妄想じゃ話にならん。
もはや時間の無駄。
>中国人を何人殺したんだ?
支那軍による虐殺11・苛酷な徴発、略奪、徴兵等【支那軍と支那人民の殺し合い】
http://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/11717562.html
(一部抜粋)
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私はうけ合ってもいい、抗戦八年のあいだにこうしてふみにじられた同胞、いわゆる壮丁から弱丁になり、弱丁から病丁になり、病丁から死丁になって行った同胞の数は、戦死したもの、日本軍に殺されたものにくらべて、最低百倍は超えているに違いない。
『抗日戦回想録』郭沫若自伝
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一般住民に対して、徴発と略奪があまりしばしば行われたので、農民は日本軍(1)よりも彼等自身の軍隊(2)をさらに一層憎んだ。穀物を略奪されまいとして抵抗する農民を飢えた中国兵が殺したり、日本軍の進撃を免れるために逃亡兵が村民を殺し、その衣類を自分が着こんで変装するということも起こった(3)。日本軍の進撃を鈍らせて鄭州の町を守るために、政府は1938年に黄河の堰を開いた。すると、黄河は1世紀近く前から打ち捨てられたままになっていた古い河道を再び流れた。「思い切った」決定であったが、このために、河南省東部の数十万の農民が命を失った。彼等は水に溺れ、或は飢えて死んだのである。
(1)日本軍は食べ物が良かったので、中国兵ほどには盗みをする必要がなかった。
(2)この表現が不適当であることはいうまでもない。彼等はこの軍隊を決して自分たちの軍隊とは考えなかった。日本軍の兵士も国民党の兵士も、外からやってきた同じ禍であるのに変わりはなかった。
(3)例えば、1941年の春に、河南省と山西省の省境の山岳地帯で起こった。
軍隊の行動や戦争のやり方からだけでも、農民がどのような反応を示したかは想像に難くない。彼等は自らを守って生き延びようと努力したのである。彼等は国府軍の徴発する米に砂を混ぜ、白痴や片輪者を徴募兵として送り出し(1)、敵軍がその必要とする軍用道路の工事に働く苦力に高い賃金を払うとなると、たちまち大挙して日本占領地帯に移住した。時には、彼等は隊を組んで国府軍の敗残兵を襲撃し、団結して徴募係の役人どもを虐殺した。河南省では、当局の無関心、無能力、穀物のトン積、さらには投機のために、1942年から43年にかけて起こった飢饉(2)が大いに悪化したので、日本人が1944年にこの省に再び(3)侵入した時、彼らにとっては事はことのほかに容易だった。彼らが前進してくるにつれて、農民は国民党の軍隊を襲撃し、武装解除し、時にはこれにリンチを加えたのである。
(1)長々と述べるよりは、農民層の徴兵に対する態度を一層よく説明するような挿話をもう1つ紹介しよう。これは外敵の侵略による農民ナショナリズムの誕生を分析しようとする場合に、無視できないような生の事実の1つである。河南省の鞏県に住む或る貧農の夫婦は炭鉱の坑夫をしている1人息子の賃銀のおかげで漸く暮らしていた。年の頃は40歳前後のこの夫婦に突然2人目の息子ができたときに、徴募係の役人どもがやって来て、長男は軍隊に入らなければならないと夫婦に告げた。法規によれば、1軒の家で息子1人だけが徴兵を免除されることになっているからというのである。妻はもしその息子がいなくなれば、自分たちは飢え死にすると説明して、嘆願した。だが土地の役人たちは耳を傾けようとしなかった。すると、彼女は家に帰って、赤ん坊を地べたに続けざまに打ちつけて死なせてしまった。
(2)未確認の数字であるが、この飢饉のために凡そ200万の死者を出したといわれる。
(3)戦争の初期に、彼等は1度ここを占領したことがある。
『中国革命の起源1915−1945』ルシアン・ビアンコ著
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これは メッセージ 24166 (todorigafuti さん)への返信です.