南京大虐殺・従軍慰安婦強制連行の嘘

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Re: 元祖南京の真実

投稿者: fukagawatohei 投稿日時: 2008/04/24 13:13 投稿番号: [23085 / 41162]
>チャンと戦闘詳報や、警備、掃蕩、等々を誰がしたかをしらべることですな。>

はいはい!

(google参照):

「捕虜の殺戮を行ったのは山田支隊でした。山田支隊は、佐々木支隊の後方から、やや北よりのルートを通って、同じく城門を迂回して南京の後背に回ろうと進撃してきました。彼らは13日夜から14日の早朝にかけて、下関より数キロ手前の幕府山という拠点に進出し、そこで膨大な敗残兵と避難民を発見し、これを捕虜としたのです。その人数は、手記によって差がありますが山田支隊長の日誌によれば1万4777名、あるいは他の将校の陣中日誌では1万7025人などとなっています。

第16師団は、「捕虜はせぬ方針」の師団長を筆頭に躊躇なく投降兵の殺戮を行っていますが、山田支隊はその場で殺すことはさすがに躊躇したらしく、いったんは捕虜として受け入れたのですが、結局は長参謀長からの命令で、16日と17日の2回に分けて揚子江の川辺で機関銃と小銃を乱射して皆殺しにしたのです。歩兵第65連隊第2大隊第8中隊の遠藤高明少尉は、16日の陣中日誌にこう書いています。

捕虜総数1万7025名、夕刻より軍命令により捕虜の3分の1を江岸に引き出しI (第1大隊) において射殺す。1日2合給養するに百俵を要し、兵自身徴発により給養しおる今日、到底不可能事にして軍より適当に処分すべしとの命令ありたるもののごとし。

山田支隊山砲兵第19連隊第3大隊の黒須忠信上等兵の陣中日誌によると、以下のとおりです。

午後1時、我が段列より20名は残兵掃湯 (掃討) の目的にて馬風 (幕府) 山方面に向かう。2、3日前捕慮 (捕虜) せし支那兵の一部5千名を揚子江の沿岸に連れ出し、機関銃をもって射殺す。その后銃剣にて思う存分に突き刺す。自分もこの時ばがり (ばかり) と憎き支那兵を30人も突き刺したことであろう。
山となっている死人の上をあがって突き刺す気持ちは、鬼お (を) もひひ (し) がん勇気が出て力いっぱい突き刺したり。ウーン、ウーンとうめく支那兵の声、年寄りもいれば子供もいる。一人残らず殺す。刀を借りて首も切ってみた。こんなことは今まで中にない珍しい出来事であった。
帰りし時は午後8時となり、腕は相当疲れていた。

「年寄りもいれば子供もいる」という記述から、この捕虜には、実際には軍人ばかりでなく民間人も混在していたことがわかります。翌17日の捕虜殺害については、第65連隊第1大隊の荒海清衛上等兵の陣中日誌がこう記しています。

今日は南京入城なり (一部分) 。俺等は今日も捕虜の始末だ。1万5千名。今日は山で。

この殺害の後始末は、とてもその日一日で終わるようなものではなかったようで、第65連隊第2大隊第7中隊の小寺隆上等兵の陣中日誌にはこうあります。

12月18日   昨夜まで殺した捕リョは約2万、揚子江に2ヶ所に山のように重なっているそうだ。7時だが方付け (片付け) 隊は帰ってこない。

12月19日   午前7時半整列にて清掃作業に行く。揚子江の現場に行き、折り重なる幾百の死骸に警 (驚) く。石油をかけて焼いたため悪臭はなはだし、今日の使役兵は師団全部、午後2時までかかり作業を終わる。昼食は3時だ。

「便衣兵」狩りのエスカレートを招いたのが、12月17日に行われた南京入城式でした。松井石根は、一国の首都占領という「壮挙」 (実際には、1ヶ月前に首都は移転していたとはいえ) に酔い、周囲の反対を押し切ってその記念式典を、それもできるだけ早く実施することにこだわりました。入城式では上海派遣軍司令官の朝香宮鳩彦王中将 (皇族) が騎馬で行進したため、その身に何かあってはならないというので、城内の徹底的な掃討が行われ、それによって多くの犠牲者が出たのです。」
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