Re: シカゴデイリーニューズ re 便衣兵
投稿者: fukagawatohei 投稿日時: 2008/04/23 15:26 投稿番号: [23060 / 41162]
>おっちゃんの好きな貼り付けしておきます。
読んでね。>
こんなん言うてる人もおりまんねん:
(google参照):
便衣兵は戦時国際法違反だから殺害は合法か?
これもよく聞く否定論の定型です。「便衣兵」つまり軍服を着ていない兵士は交戦者の資格がないから処刑は合法だというわけです。仮にもし処刑が合法だと仮定しても、当時の日本の戦時国際法の解釈でも、それには軍事裁判が必要だとされていました。敵兵が「便衣」だからといって、その場で殺害することは、どちらに転んでも違法だったのです。
また、下関で逃げ道を失った中国兵の中には、市街地に引き返して武器・軍服を捨てて身を隠す者も少なくありませんでした。日本軍に投降しても殺されるのですから、それしか手がなかったとも言えます。上海での戦いでは、平服で日本兵を攻撃する、「便衣兵」と呼ばれる不正規兵が存在したようですが、南京では中国兵はまったく戦意を失い、何とか生き延びようと武器を捨て、軍服も捨てたのです。まったく何の戦闘力も持っていない状態です。ニューヨーク・タイムズの記者F.T.ダーディンは、その模様を1938年1月9日付り紙面で以下のように報じました。
日曜日 (12日) 夜、中国兵は安全区内に散らばり、大勢の兵隊が軍服を脱ぎはじめました。民間人の服が盗まれたり、通りがかりの市民に、服を所望したりした。また、「平服」が見つからない場合には、兵隊は軍服を脱ぎ捨てて下着だけになった。
軍服といっしょに武器も捨てられたので、通りは、小銃・手榴弾・剣・背嚢・上着・軍靴・軍帽などで埋まった。下関門(江門)近くで放棄された軍装品はおびただしい量であった。交通部の前から2ブロック先まで、トラック、大砲、バス、司令官の自動車、ワゴン車、機関銃、携帯武器などが積み重なり、ごみ捨て場のようになっていた。
これら軍服を捨てて逃亡した兵士たちを日本軍は「便衣兵」と称して容赦なく狩り立てて、殺戮していったのです。多くの場合は青壮年の男性はみんな兵士と見なされ、あるいは、選別をしたにしても、その基準は「靴ずれがある、面タコがある、きわめて姿勢がよい、目つきが鋭い」など、まったくいい加減なものであったため、多くの一般市民も「便衣兵」とされて殺戮されたのです。彼らは、その場で殺されるか、あるいはすでに捕虜の大虐殺が行われていた下関など郊外に連れ出されて殺された場合もあったようです。
とりわけ、警察・消防・電力会社の技術者などが制服を着る職種は、皆殺しとなりました。そのため、火事が起きても消火する者がおらず、電気の供給も途切れたままという状態が続くことになりました。
この状況を目の当たりにして、袋の鼠となった兵士たちの多くが、安全区に逃げ込もうとしました。国際安全区委員会のメンバーたちは武装解除の上で彼らを安全区に受け入れました。彼らは、日本軍が国際法を遵守し、安全区を尊重すると考えたのです。しかし、実際には、日本軍は安全区に対して、ほとんど何の配慮も見せませんでした。第16師団と第9師団が安全区の中に踏み込み、情け容赦なく「便衣兵」狩りを行ったのです。
特に「便衣兵」狩りのエスカレートを招いたのが、12月17日に行われた南京入城式でした。松井石根は、一国の首都占領という「壮挙」 (実際には、1ヶ月前に首都は移転していたとはいえ) に酔い、周囲の反対を押し切ってその記念式典を、それもできるだけ早く実施することにこだわりました。入城式では上海派遣軍司令官の朝香宮鳩彦王中将 (皇族) が騎馬で行進したため、その身に何かあってはならないというので、城内の徹底的な掃討が行われ、それによって多くの犠牲者が出たのです。
(まあ〜、結局、めんどくせ〜から、中国人は皆、便衣兵という事にして、殺っちまった
って事でしょう。)
読んでね。>
こんなん言うてる人もおりまんねん:
(google参照):
便衣兵は戦時国際法違反だから殺害は合法か?
これもよく聞く否定論の定型です。「便衣兵」つまり軍服を着ていない兵士は交戦者の資格がないから処刑は合法だというわけです。仮にもし処刑が合法だと仮定しても、当時の日本の戦時国際法の解釈でも、それには軍事裁判が必要だとされていました。敵兵が「便衣」だからといって、その場で殺害することは、どちらに転んでも違法だったのです。
また、下関で逃げ道を失った中国兵の中には、市街地に引き返して武器・軍服を捨てて身を隠す者も少なくありませんでした。日本軍に投降しても殺されるのですから、それしか手がなかったとも言えます。上海での戦いでは、平服で日本兵を攻撃する、「便衣兵」と呼ばれる不正規兵が存在したようですが、南京では中国兵はまったく戦意を失い、何とか生き延びようと武器を捨て、軍服も捨てたのです。まったく何の戦闘力も持っていない状態です。ニューヨーク・タイムズの記者F.T.ダーディンは、その模様を1938年1月9日付り紙面で以下のように報じました。
日曜日 (12日) 夜、中国兵は安全区内に散らばり、大勢の兵隊が軍服を脱ぎはじめました。民間人の服が盗まれたり、通りがかりの市民に、服を所望したりした。また、「平服」が見つからない場合には、兵隊は軍服を脱ぎ捨てて下着だけになった。
軍服といっしょに武器も捨てられたので、通りは、小銃・手榴弾・剣・背嚢・上着・軍靴・軍帽などで埋まった。下関門(江門)近くで放棄された軍装品はおびただしい量であった。交通部の前から2ブロック先まで、トラック、大砲、バス、司令官の自動車、ワゴン車、機関銃、携帯武器などが積み重なり、ごみ捨て場のようになっていた。
これら軍服を捨てて逃亡した兵士たちを日本軍は「便衣兵」と称して容赦なく狩り立てて、殺戮していったのです。多くの場合は青壮年の男性はみんな兵士と見なされ、あるいは、選別をしたにしても、その基準は「靴ずれがある、面タコがある、きわめて姿勢がよい、目つきが鋭い」など、まったくいい加減なものであったため、多くの一般市民も「便衣兵」とされて殺戮されたのです。彼らは、その場で殺されるか、あるいはすでに捕虜の大虐殺が行われていた下関など郊外に連れ出されて殺された場合もあったようです。
とりわけ、警察・消防・電力会社の技術者などが制服を着る職種は、皆殺しとなりました。そのため、火事が起きても消火する者がおらず、電気の供給も途切れたままという状態が続くことになりました。
この状況を目の当たりにして、袋の鼠となった兵士たちの多くが、安全区に逃げ込もうとしました。国際安全区委員会のメンバーたちは武装解除の上で彼らを安全区に受け入れました。彼らは、日本軍が国際法を遵守し、安全区を尊重すると考えたのです。しかし、実際には、日本軍は安全区に対して、ほとんど何の配慮も見せませんでした。第16師団と第9師団が安全区の中に踏み込み、情け容赦なく「便衣兵」狩りを行ったのです。
特に「便衣兵」狩りのエスカレートを招いたのが、12月17日に行われた南京入城式でした。松井石根は、一国の首都占領という「壮挙」 (実際には、1ヶ月前に首都は移転していたとはいえ) に酔い、周囲の反対を押し切ってその記念式典を、それもできるだけ早く実施することにこだわりました。入城式では上海派遣軍司令官の朝香宮鳩彦王中将 (皇族) が騎馬で行進したため、その身に何かあってはならないというので、城内の徹底的な掃討が行われ、それによって多くの犠牲者が出たのです。
(まあ〜、結局、めんどくせ〜から、中国人は皆、便衣兵という事にして、殺っちまった
って事でしょう。)
これは メッセージ 23058 (kamitsunomiyanonushi さん)への返信です.