私のソンケイする人 - 内藤良一
投稿者: fukagawatohei 投稿日時: 2008/02/22 17:10 投稿番号: [22446 / 41162]
内藤 良一(ないとう りょういち、1906年12月26日 - 1982年7月)は、日本の陸軍軍医大佐。防疫給水部731部隊で活躍。戦後は日本ブラッド・バンク(ミドリ十字)を設立。医学博士
内藤良一 経歴
京都府綾部出身、妻女は「広島県出身」。茨木中学、第三高等学校 (旧制)を経て、1927年京都帝国大学医学部に入学して、そこで陸軍委託学生(卒業後陸軍に入ることを条件に陸軍が学資給付)になる。1936年に京大大学院を卒業(「バクテリオファ-ジ研究補遺」で医学博士)。
1937年からヨーロッパ、アメリカで研究、情報収集(いわゆるスパイ)をしていた。帰国後、東京・戸山の陸軍軍医学校防疫研究室の主任に就任。終戦まで満州の731部隊で石井四郎中将の右腕として、国際法違反の生物兵器の使用や3000人以上の便衣兵や捕虜などを人体実験(通称・マルタ)で殺傷したことに、主だった京大医学部関係者らとともに東京の陸軍軍医学校を拠点にに関与している。
1945年8月、大本営作戦参謀・朝枝繁春の731部隊は撤退を告げられ、幹部とその家族とともに引き揚げた。
敗戦後、内藤らは、精力的にGHQに働き掛け、731部隊の研究実験データを差し出すバーターとして、GHQ側は関係者全員の免責を決定した。アメリカ留学時代の得意の英語を生かした内藤の交渉力がものをいったとされる。生物兵器のデータがソ連に流出するのを食い止めると同時に自らの活用を考えていたアメリカは、全員を戦犯から除外するのと引き替えにして全てのデータを入手した。GHQは、「このような貴重なデータを入手するためにわれわれの出費は700ドルの端金にすぎなかった」と語っている。東京裁判でも731部隊員は一人として裁かれることはなかった。
1950年、大阪の茨木市で開業医をしている内藤の所に宮本光一(日本特珠工業社長 / 陶器製爆弾、石井式濾水器製作)、二木秀夫(731部隊二木班班長、右翼系政界誌「政界ジープ」の発行者)が訪れる。この2人の尽力を得て、内藤は厚生省、日本赤十字、GHQに働きかけ、同年11月に「日本ブラッドバンク社」を設立し代表取締役になる。朝鮮戦争の朝鮮特需のまっただなかで、負傷兵に大量の血液が必要とされたために遺伝子工学的手法による自らの発明した人工血漿装置により株式会社化されることとなった。のちにこの人工血漿装置が当時から非加熱使用であった為に肝炎の問題や薬害エイズの発端となり社会問題となった。
(google参照)
これは メッセージ 1 (the_super_aikokusya さん)への返信です.
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