Re: 南京の日本軍艦
投稿者: kanbaku9999 投稿日時: 2007/08/13 02:18 投稿番号: [20490 / 41162]
>また、メチャクチャなことを言ってるね。
では今度はあなたが南京まで帝国海軍の駆逐艦が行かなかった事を証明しなさい。あの写真集はウソだという証拠を。
>アンタこそ、旧日本軍は極悪・残虐だった、という前提でしか語っていないのでは?
旧日本軍は勇ましいところ、かっこいいところも多々あったが、旧体制は味方にも残酷でした。 渋谷のユーロスペースその他で上演中の新藤兼人の名作「陸に上がった軍艦」、池袋新文芸座でやってる「軍機はためく下に」などを見てきて下さい。 日本軍による大虐殺は南京だけではない、徐州作戦もひどかったし東条英機指揮するチャハル兵団の虐殺事件、 太平洋戦争が始まってからは、フィリッピンでの数々の蛮行、シンガポールの華僑大虐殺、泰緬鉄道工事、等々。
>だから、証拠を出せと言っているだけ。
エエ加減しんどくなってきたが再び引用します。 その代わり「無かった証拠」も出して下さいね。 この写真は南京ではない、とか、捕虜の顔が笑っている、などという詰まらん枝葉末節の揚げ足取りでなく、、、
歩兵第33機関銃中隊島田克己大尉 「多くの敗残兵を捕らえたが、”やってしまえ”と襲いかかるケースが多かった」 (やってしまえ、の意味が分からんなどと言わないで下さいよ)
歩33戦闘詳報「捕虜計3096(捕虜は処断す)」(処断の意味は知ってるでしょうね)
第16師団長中島中将日記「大体捕虜はせぬ方針、、、」「各部隊の捕虜を合算すれば我が支隊のみで二万以上は解決されているはず」「佐々木部隊だけにて処理せしもの約一万五千、太平門における守備の一中隊長が処理せしもの約1300、、、」(解決、処理の意味は分かるでしょうね、日本語だから)
歩38連隊副官児玉義雄大尉「師団命令として、支那兵の降伏を受け入れるな、処置せよ、と電話で伝えられた」
第16師団小原主計少尉「およそ310名の正規軍を捕虜にしてきた、、、間もなく一人づつ一丁ばかり離れた所へ引き出して兵隊200人ばかりで全部突き殺す。中に女一名あり、殺して陰部に木片を突っ込む」
野戦郵便局長佐々木元勝氏「また武装解除された支那兵の大群に会う。7千2百名とか。引率の将校が『一挙に殺す方法を考案中』と語った」
歩兵第19旅団陣中日記「敗残兵328名を銃殺、、、」
山田支隊長メモ「捕虜の始末の事で本間少尉を師団に派遣せしところ『始末せよ」との命を受く」
総司令官松井大将の副官角良少佐「十二月十八日朝、師団から軍の情報課に電話があった『下関に支那人約12,3万いるがどうしますか』情報課長の長中佐は極めて簡単に『ヤッチマエ』と命令した」
7中隊大寺隆上等兵日記「昨夜までに殺した捕虜は約二万、、、」
歩13連隊第二機関銃中隊児玉房弘上等兵「山上に重機関銃を据え付けると、ふもとのくぼ地に連行してきた数え切れないほどの捕虜の姿。そこに突然『撃て』の命令。丸で地獄を見ているようでした。血柱があがるのもはっきり分かりました」
大本営参謀奥宮正武海軍中佐「倉庫群の中に中国人を乗せたトラックが次々と消えていった、、、不審に思った私が哨兵に断って構内に入った、、、両手を後ろ手に縛られた中国人十数名が江岸の縁に沿って引き出され、軍刀や銃剣で惨殺されたのち揚子江に投棄されていた」「翌日も同じものを見た」
三笠宮殿下(昭和天皇の弟・陸軍士官学校・陸軍大学校出身)「「一九四三年一月、私は支那派遣軍参謀に補せられ、南京の総司令部に赴任しました。そして一年間在勤しましたが、その間に私は日本軍の残虐行為を知らされました。……ある青年将校(私の陸士時代の同期生だったからショックも大きかったのです)から、兵隊の肝力を養成するには生きた捕虜を銃剣で突きささせるに限る、と聞きました。また、中国人捕虜を貨車やトラックに積んで満州の広野に連行し、毒ガスの生体実験をしている映画も見せられました。その実験に参加したある高級軍医はかつて満州事変を調査するために国際連盟から派遣されたリットン卿の一行に、コレラ菌を付けた果物を出したが成功しなかった。と語っていました。『聖戦』のかげに、じつはこんなことがあったのでした」 (三笠宮崇仁『古代オリエント史と私』学生社 1984年刊より)
ほかにも沢山ありますよ。 この様な厳然たる事実があるのに、あなた方「まぼろし派」は枝葉末節の揚げ足取りに終始している。 一体「証拠」とはなんですか? やった人がやったといい、見た人が見た、聞いた人が聞いたと言う、それでも信用しない、、、あなたにとって歴史の検証とはなんですか? 証拠の証拠の証拠の証拠を示してもダメでしょうね。 必ず、ではその証拠は? と来るからね。
では今度はあなたが南京まで帝国海軍の駆逐艦が行かなかった事を証明しなさい。あの写真集はウソだという証拠を。
>アンタこそ、旧日本軍は極悪・残虐だった、という前提でしか語っていないのでは?
旧日本軍は勇ましいところ、かっこいいところも多々あったが、旧体制は味方にも残酷でした。 渋谷のユーロスペースその他で上演中の新藤兼人の名作「陸に上がった軍艦」、池袋新文芸座でやってる「軍機はためく下に」などを見てきて下さい。 日本軍による大虐殺は南京だけではない、徐州作戦もひどかったし東条英機指揮するチャハル兵団の虐殺事件、 太平洋戦争が始まってからは、フィリッピンでの数々の蛮行、シンガポールの華僑大虐殺、泰緬鉄道工事、等々。
>だから、証拠を出せと言っているだけ。
エエ加減しんどくなってきたが再び引用します。 その代わり「無かった証拠」も出して下さいね。 この写真は南京ではない、とか、捕虜の顔が笑っている、などという詰まらん枝葉末節の揚げ足取りでなく、、、
歩兵第33機関銃中隊島田克己大尉 「多くの敗残兵を捕らえたが、”やってしまえ”と襲いかかるケースが多かった」 (やってしまえ、の意味が分からんなどと言わないで下さいよ)
歩33戦闘詳報「捕虜計3096(捕虜は処断す)」(処断の意味は知ってるでしょうね)
第16師団長中島中将日記「大体捕虜はせぬ方針、、、」「各部隊の捕虜を合算すれば我が支隊のみで二万以上は解決されているはず」「佐々木部隊だけにて処理せしもの約一万五千、太平門における守備の一中隊長が処理せしもの約1300、、、」(解決、処理の意味は分かるでしょうね、日本語だから)
歩38連隊副官児玉義雄大尉「師団命令として、支那兵の降伏を受け入れるな、処置せよ、と電話で伝えられた」
第16師団小原主計少尉「およそ310名の正規軍を捕虜にしてきた、、、間もなく一人づつ一丁ばかり離れた所へ引き出して兵隊200人ばかりで全部突き殺す。中に女一名あり、殺して陰部に木片を突っ込む」
野戦郵便局長佐々木元勝氏「また武装解除された支那兵の大群に会う。7千2百名とか。引率の将校が『一挙に殺す方法を考案中』と語った」
歩兵第19旅団陣中日記「敗残兵328名を銃殺、、、」
山田支隊長メモ「捕虜の始末の事で本間少尉を師団に派遣せしところ『始末せよ」との命を受く」
総司令官松井大将の副官角良少佐「十二月十八日朝、師団から軍の情報課に電話があった『下関に支那人約12,3万いるがどうしますか』情報課長の長中佐は極めて簡単に『ヤッチマエ』と命令した」
7中隊大寺隆上等兵日記「昨夜までに殺した捕虜は約二万、、、」
歩13連隊第二機関銃中隊児玉房弘上等兵「山上に重機関銃を据え付けると、ふもとのくぼ地に連行してきた数え切れないほどの捕虜の姿。そこに突然『撃て』の命令。丸で地獄を見ているようでした。血柱があがるのもはっきり分かりました」
大本営参謀奥宮正武海軍中佐「倉庫群の中に中国人を乗せたトラックが次々と消えていった、、、不審に思った私が哨兵に断って構内に入った、、、両手を後ろ手に縛られた中国人十数名が江岸の縁に沿って引き出され、軍刀や銃剣で惨殺されたのち揚子江に投棄されていた」「翌日も同じものを見た」
三笠宮殿下(昭和天皇の弟・陸軍士官学校・陸軍大学校出身)「「一九四三年一月、私は支那派遣軍参謀に補せられ、南京の総司令部に赴任しました。そして一年間在勤しましたが、その間に私は日本軍の残虐行為を知らされました。……ある青年将校(私の陸士時代の同期生だったからショックも大きかったのです)から、兵隊の肝力を養成するには生きた捕虜を銃剣で突きささせるに限る、と聞きました。また、中国人捕虜を貨車やトラックに積んで満州の広野に連行し、毒ガスの生体実験をしている映画も見せられました。その実験に参加したある高級軍医はかつて満州事変を調査するために国際連盟から派遣されたリットン卿の一行に、コレラ菌を付けた果物を出したが成功しなかった。と語っていました。『聖戦』のかげに、じつはこんなことがあったのでした」 (三笠宮崇仁『古代オリエント史と私』学生社 1984年刊より)
ほかにも沢山ありますよ。 この様な厳然たる事実があるのに、あなた方「まぼろし派」は枝葉末節の揚げ足取りに終始している。 一体「証拠」とはなんですか? やった人がやったといい、見た人が見た、聞いた人が聞いたと言う、それでも信用しない、、、あなたにとって歴史の検証とはなんですか? 証拠の証拠の証拠の証拠を示してもダメでしょうね。 必ず、ではその証拠は? と来るからね。
これは メッセージ 20473 (samurai_deeper2006 さん)への返信です.