南京大虐殺・従軍慰安婦強制連行の嘘

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アジアの教科書 ブルネイの教科書

投稿者: yominokuni56 投稿日時: 2007/07/14 09:50 投稿番号: [20033 / 41162]
初級中学校用
「ブルネイの歴史」(英語)
ブルネイ言語.図書委員会編
三部   21日本のブルネイ占領

1938年日本は「東亜新秩序」を宣言した。(1938.11.03近衛声明)

それは日本が蒋介石政府を倒し、中国を掌中に収めるためのものであった。
また,新秩序は東アジアにおける全ての西洋列強を排除することも目的とした。
日本のスローガンは「アジアのためのアジア」であった。

日本軍は東アジア本土への第一回目の攻撃を陸から開始した。(マレー半島のこと)攻撃を加えながらブルネイにも日本陸軍は上陸していた。

1941年12月16日   日本軍はクアラ.べライトに上陸し、直ちにセリア油田を占領した。(ブルネイの西部、サラワクのミリと並ぶ「英領ボルネオ」の有数の油田地帯)
6日後の1941年12月22日ブルネイ市は日本陸軍により、占拠され、ブルネイ政府のイギリス将校全員が捕虜となった。

日本陸軍は   その後すぐ新秩序の宣伝を始めたが乱暴かつ横暴だった為に、ブルネイの人々の歓迎を受けなかった。クアラ.べライトの住民は油田の労働に狩り出され、村人は穀物の生産を強いられた。また、日本の軍事規律を無視した者達に対して行われた大量処刑を目の前で見させられた。

商売の取引も行われなくなってしまった。2〜3の小売業者のみが配給係としてその商売を続けることが許された。
ブルネイの住人にとって幸いなことに、政府が第二次世界大戦勃発前に、大量の米の輸入を貿易業者に命じていた。ヨーロッパの戦況から察して極東における輸送ルートがマヒするだろうということを考慮に入れて、このような行動をとった。日本が占領した初めのころは食料不足は無かった、がしかし、十分であった食料の全ても、貯えも1943年の終わりまでには使い果たされてしまった。日本軍も食料の欠乏に困窮していた、収穫の時期がくると、日本軍はほとんどの穀類を奪っていった、そのためブルネイの人々は食料不足に陥った。

日本軍はブルネイを占領すると病院を管理下に置いた。当時   薬品を手に入れるのは困難な事だった。マラリアが流行していたのに、日本陸軍はその蔓延を予防しようとはしなかった。

日本陸軍は道路、排水、灌漑の管理に留意しなかった。彼らが修復したのはわずかなブルネイートゥトン間とブルネイーウアラ間の道路のみであった。
この2つの道路もムアラまでの石油のパイプラインを引く為のものであった。

日本陸軍がセリア油田を占有していた時には159万4千英トンもの石油を確保していた(1英トン=1016kg)
日本陸軍が退却する時、日本陸軍の手で破壊された(1945年)
1945年6月10日連合国軍がムアラに上陸した、そのころ日本陸軍は自分達の施設を壊し、セリア油田を焼失させるのに余念が無かった。
退却する前、反日運動を組織したと思われる人たちを殺した。

日本陸軍がブルネイから立ち去ると、新政府がイギリス軍政の下に置かれた。
食料、衣料が全住民に無料配布された。病人は病院での看護が受けられるようになった。住民の健康は次第に快方にむかい、貿易も徐々に再興した。
1945年7月6日ブルネイの統治は民政の手に移った。
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