中国人を救った日本軍
投稿者: anti_mainas_shikou 投稿日時: 2007/05/26 21:46 投稿番号: [18573 / 41162]
温故一九四二
劉震雲著 中国書店 劉燕子訳
13〜14頁
一九四二年の夏から一九四三年の春にかけて、河南省では大干ばつが起き、その光景は見るも無惨だった。
夏と秋の二季、全省の大部分では収穫がえられなかった。
大干ばつの後、今度はイナゴの害が発生した。
被災農民は五百万人で、全省人口の二剖を占めた。
「水旱蝗湯 (註3)」が、全省百十県を襲った。
(註3:「湯」 は湯恩伯 (一八九八〜一九五九) を指す。 彼は国民党軍の将軍で
軍費の維持のために租税を厳しく取り立て、その苛政誅求な租税は 「湯糧」 と呼ばれた)
被災農民は草の根や木の皮まで食べたが、いたるところで餓死者が出た。
女の売り値は以前の十分の一にまで下がり、身代わりで兵役につく男 (註4) の売り値も三分の一になった。
(註4:国民党が強制的に拉致して兵隊に仕立てるので、免除してもらうために、
代役として身代わりにさしだす男につけられた値段)
寂蓼(せきりょう)たる中原、どこまでもつづく赤土。
河南省では三百万人あまりが餓死した。
12〜13頁
一九四三年二月、アメリカの週刊 『タイム』 の記者、セオドア・ホワイトと、
イギリスの 『ロンドン・タイムズ』 の記者、ハリソン・フォアマンは、飢饉の状況の調査をするために河南に行った。
母親が自分の赤ん坊を煮て食べたというその場所で、
わが故郷の省政府の役人が二人の外国の友人をもてなしたメニューは、
蓮の実のとろみスープ、コショウと唐辛子で味つけした鶏肉、栗いりの牛肉シチュー、
豆腐、魚、揚げ春巻、ほかほかの鰻頭 (マントウ) 、白いご飯、二種類のスープで、
それに白砂糖をまぶした餡 (あん) 入りの餅が三つ付いていた。
これだけの料理は、現在でも、ぼくらのような平凡な市民は、せいぜい本で読むか、
高級レストランのメニューでお目にかかるだけだ。
それは、これまで口にしたなかで、もっともすばらしい宴会だったと、ホワイトは語っている。
ぼくも、かつて目にしたことのあるなかでもっともすばらしい宴会だったと言おう。
しかし、彼はまた、食するにしのびないとも言った。
ただし、わが故郷の省政府の役人は、ホワイトのように気おくれしてはいなかったと、ぼくは確信する。
112〜113頁
日照りで焼けた麦、イナゴに食われたカオリャン、雹 (ひょう) に打たれた蕎麦。
最後の望みもまた、一株一株と穂を垂れ、死んでゆく秋苗とともに枯れ、彼らを死への旅路へと追い立てる。
当時の河南人は、十中八九、飢餓の苦しみに封じこまれていた。
このようなことが続けば、わが故郷の河南人はいつか飢えて全滅しただろう
では当時、なぜ絶滅しなかったのだろうか?
政府がなんらかの措置を講じたからであろうか?
否。
イナゴが自ら飛び去ったからか?
否。
ではなぜ?
日本人が来たからである。
一九四三年、日本人は河南の被災地区に入り、わが故郷の人々の命を放ったのだ。
・・・
彼らはわれわれにたくさんの軍糧を放出してくれた。
われわれは皇軍の軍程を食べて生命を維持し、元気になった。・・・
われわれは、・・・生き延びるために、乳を与えてくれる者は誰でも母親とみなした。
日本の軍糧を食べ、国を売り、売国奴となったのだ。
われわれは向きを変えて、日本軍を支持し、侵略者がわれわれを侵略するのを支持した。
当時、わが故郷の農民や親戚、友人らのなかで、日本軍のために道案内をしたり、
日本軍側の前線で後方支援したり、担架を担いだり、さらには軍隊にはいって、
日本軍が中国軍の武装解除にゆくのを助けたりした者の数は、計り知れない。
五十年後、その売国奴を追及するにしても、その数はあまりにも多く、至るところにいる。
われわれはみな、売国奴の子孫なのだ。あなたたちはどうやって追及するのだ?
−−−−−
日本軍が中国人を虐殺し、皆殺しをしていたのなら、この行動は、つじつまがあいませんね。
劉震雲著 中国書店 劉燕子訳
13〜14頁
一九四二年の夏から一九四三年の春にかけて、河南省では大干ばつが起き、その光景は見るも無惨だった。
夏と秋の二季、全省の大部分では収穫がえられなかった。
大干ばつの後、今度はイナゴの害が発生した。
被災農民は五百万人で、全省人口の二剖を占めた。
「水旱蝗湯 (註3)」が、全省百十県を襲った。
(註3:「湯」 は湯恩伯 (一八九八〜一九五九) を指す。 彼は国民党軍の将軍で
軍費の維持のために租税を厳しく取り立て、その苛政誅求な租税は 「湯糧」 と呼ばれた)
被災農民は草の根や木の皮まで食べたが、いたるところで餓死者が出た。
女の売り値は以前の十分の一にまで下がり、身代わりで兵役につく男 (註4) の売り値も三分の一になった。
(註4:国民党が強制的に拉致して兵隊に仕立てるので、免除してもらうために、
代役として身代わりにさしだす男につけられた値段)
寂蓼(せきりょう)たる中原、どこまでもつづく赤土。
河南省では三百万人あまりが餓死した。
12〜13頁
一九四三年二月、アメリカの週刊 『タイム』 の記者、セオドア・ホワイトと、
イギリスの 『ロンドン・タイムズ』 の記者、ハリソン・フォアマンは、飢饉の状況の調査をするために河南に行った。
母親が自分の赤ん坊を煮て食べたというその場所で、
わが故郷の省政府の役人が二人の外国の友人をもてなしたメニューは、
蓮の実のとろみスープ、コショウと唐辛子で味つけした鶏肉、栗いりの牛肉シチュー、
豆腐、魚、揚げ春巻、ほかほかの鰻頭 (マントウ) 、白いご飯、二種類のスープで、
それに白砂糖をまぶした餡 (あん) 入りの餅が三つ付いていた。
これだけの料理は、現在でも、ぼくらのような平凡な市民は、せいぜい本で読むか、
高級レストランのメニューでお目にかかるだけだ。
それは、これまで口にしたなかで、もっともすばらしい宴会だったと、ホワイトは語っている。
ぼくも、かつて目にしたことのあるなかでもっともすばらしい宴会だったと言おう。
しかし、彼はまた、食するにしのびないとも言った。
ただし、わが故郷の省政府の役人は、ホワイトのように気おくれしてはいなかったと、ぼくは確信する。
112〜113頁
日照りで焼けた麦、イナゴに食われたカオリャン、雹 (ひょう) に打たれた蕎麦。
最後の望みもまた、一株一株と穂を垂れ、死んでゆく秋苗とともに枯れ、彼らを死への旅路へと追い立てる。
当時の河南人は、十中八九、飢餓の苦しみに封じこまれていた。
このようなことが続けば、わが故郷の河南人はいつか飢えて全滅しただろう
では当時、なぜ絶滅しなかったのだろうか?
政府がなんらかの措置を講じたからであろうか?
否。
イナゴが自ら飛び去ったからか?
否。
ではなぜ?
日本人が来たからである。
一九四三年、日本人は河南の被災地区に入り、わが故郷の人々の命を放ったのだ。
・・・
彼らはわれわれにたくさんの軍糧を放出してくれた。
われわれは皇軍の軍程を食べて生命を維持し、元気になった。・・・
われわれは、・・・生き延びるために、乳を与えてくれる者は誰でも母親とみなした。
日本の軍糧を食べ、国を売り、売国奴となったのだ。
われわれは向きを変えて、日本軍を支持し、侵略者がわれわれを侵略するのを支持した。
当時、わが故郷の農民や親戚、友人らのなかで、日本軍のために道案内をしたり、
日本軍側の前線で後方支援したり、担架を担いだり、さらには軍隊にはいって、
日本軍が中国軍の武装解除にゆくのを助けたりした者の数は、計り知れない。
五十年後、その売国奴を追及するにしても、その数はあまりにも多く、至るところにいる。
われわれはみな、売国奴の子孫なのだ。あなたたちはどうやって追及するのだ?
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日本軍が中国人を虐殺し、皆殺しをしていたのなら、この行動は、つじつまがあいませんね。
これは メッセージ 1 (the_super_aikokusya さん)への返信です.